naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

音楽「自分史」~ ピアノ時代

「自分史」を書き残す人が多いらしい。

私の場合、音楽を抜きにして自分の人生は考えられない。
ということで、音楽に限定して、自分史を少し綴ってみたくなった。

大きく分ければ、楽器(演奏)と鑑賞(レコード集め、演奏会、ライブ)になるが、とりあえず、楽器の方から。

本格的な楽器との出会いは6歳。
私は千葉県木更津市に生まれ育ったが、当時通っていた幼稚園に「ヤマハ音楽教室」(オルガン教室)が入ってきた。

親に「習ってみるか」と聞かれて、「(仲の良かった友だちの)M君もやる」というのが動機で習い始めた。
「小鳥がね、お窓でね」とかいった始まりの「ヤマハ音楽教室の歌」を毎回歌った。

電気オルガンを2年やった後、教室側の打診があってピアノに替わった(今から思うと、そういう商法だったんだろうな)。

ピアノは嫌いではなかった。やめていく友だちもいる中で、長続きしていった。
いわゆる楽典的な知識は、ピアノを習ったこの時期に身についた。今別の楽器でオケ活動をしていても、それが役に立っていると感じる。

ただ、あくまで「習い事としてのピアノ」であった。
「音楽演奏としてのピアノ」ではなかった。このことに気がついたのはずっと後のことだ。

「習い事」、つまり、ハノンやツェルニーの練習曲などを通じて、指が動くようになっていく、その結果、だんだん難しい曲も弾けるようになっていく、それが楽しくて(一種の優越感が快かったとも言える)続いていたのだと思う。

レッスンでは、純然たる練習曲のかたわら、バッハのインベンションやら、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタやらも弾いていた。
しかし、私の場合、自分が弾いているそれらの曲が、「クラシック」というジャンルの音楽、ヨーロッパでの古くからの歴史を持つ音楽、傑作として長く聴き継がれてきた音楽である、という自覚が全くなかったのだ。
私にとっては、ハノンもベートーヴェンも同じに見えていた。
「音楽演奏としてのピアノ」でなかった、というのはそういうことだ。

師事していたK先生の指導は厳しく、ずいぶん怒られもし、手をひっぱたかれたりもした。
今から思うと、「どういう音楽を弾いているのか」という意識が全く欠落した、単に指を動かしている生徒に頭にきていたのだろうと思う。

そうこうしながら10年。中学3年になっていた。
ある日のレッスンで、K先生にまたひどく叱られたことで、腹立ちまぎれに、帰宅してすぐ、夕食の支度で台所に立っていた母に、「もうピアノをやめる」と訴えた。

一時の感情はもちろんやがておさまったが、言い出したことを撤回まではしなかった。
親にとっても、高校受験も控える時期だったことで、いい区切りと思ったのだろう。
当時、毎年正月には「お弾き初め会」というのが、K先生の実家で行われていた。そこでシューマンの「子供の情景」の全曲を弾いたのを最後に、10年間のレッスン生活が終わった。

ピアノをめぐって更に色々あったのは、それから後である。