naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

居住歴

引っ越しが好きな人、好きではないけど引っ越さざるを得ない人、色々いると思う。

私は、基本的に変化を好まない保守的なタイプなのかもしれないが、引っ越しなどという面倒なものは、しないで済めばしたくないものに属する。
幸いなことに、今のマンションに住み始めてから、つい先月で丸20年を数えた。

生まれて半世紀。これまでの居住歴をふりかえると・・・。

高校卒業まで18年間は、木更津市の実家。

大学入学。
当時は前期後期でキャンパスが別々だったので、1年生2年生の2年間は、小平市在住(最寄り駅は西武多摩湖線一橋学園駅)。
親元を離れて初めての一人暮らしの嬉しさというか興奮は忘れられない。
親としては食事が一番心配だったようで、「まかない付き」を条件にして不動産屋をまわり、下宿をさがしてきた(企業の独身寮は別にして、まかない付きの下宿なんて、今時はもうないだろうな。下宿、という言葉自体がもう死語だろうか。かぐや姫神田川」、森田公一とトップギャラン「下宿屋」・・・)。
4畳半の部屋であった。
2階建てで、1階に確か1部屋、2部屋に7部屋くらいあっただろうか。全員同じ大学の学生であった。
私は2階の階段を上がったすぐ左の部屋だった。
我々の住んでいる部屋は、入口は別だが大家の家と棟続きになっていた。
朝夕2食つく。大家の家の食堂で食べるのだ。大家のおばさんが、「食事できましたよー」と呼ぶ。はいはい、と下りていく。一度に全員は入りきれないので、5人くらいずつ適当に分かれて食べるのだ。
今思うとよくそういう生活ができたものだ。
朝夕の食事時に下宿にいるというのは結構な制約である。朝食べて大学に行って(大学まで歩いて5分程度の距離だった)。夕方には帰ってきて、夕食時には下宿にいる、うーん、今考えてもよくそういう生活ができたものだ。
もちろん、時には帰宅が遅くなることもある。私の場合、週2回、夜に行われるオケの練習日などがそれだ。
そういう時はおばさんに断っておく。そして帰宅したら食堂にお邪魔して食べる。大家が寝てしまうような時間の時はおばさんが部屋に運んでおいてくれた、と記憶する。
今でもおぼえているが、食費込みで月23,000円であった。
ちなみにトイレは1階に共同の汲み取り式が1箇所あるだけ。風呂はなかったので、近くの銭湯に行ったり、大学の中に学生寮があったのでそこの風呂に入りに行ったりしていた。

後期、3年生4年生の時は、国立市に引っ越した(中央線国立駅から10分足らずのところ)。
これはごくごく普通の2階建てアパートで、台所トイレ付きの6畳間(水洗トイレになったのが嬉しかった)。
風呂は共同の浴場で、コインを入れるとガスが出るという形のものがあったが、ほとんど使わずに銭湯に行っていた。
私は1階の右端の部屋だった。
こちらはまかないはない。自炊と外食の併用であった。純粋な部屋代だけだったが、こっちの方が高く、月25,000円だったと記憶する。
国立というところは音大生が多いので、不動産屋で物件をさがしても、店頭のガラス戸に貼ってある物件の紙に「ピアノ可」と書いてあったりするのが特徴的だった。おそらく今でもそうだろう。
部屋で窓をあけていると、同じアパートの近くの部屋から、ピアノやらフルートやらをさらう音がしょっちゅう聞こえてきた。
マチュアのこちらはとても恥ずかしくて部屋では弾けないし、さらうとすれば大学の部室に行っていた。
音に対してそのように寛容な環境だったので、部屋で楽器こそさらわなかったが、昼夜を問わず、レコードをガンガン鳴らしたり、それに合わせてギターをかきならしながら歌ったりということは存分にできた。建物自体も普通よりは防音仕様だったのかもしれないが、2年間住んでいて、うるさいと文句を言われたことは一度もない。

さて、そして就職である。
卒業時は、とりあえず国立の荷物一式を木更津の実家に戻した。配属先が不明だから。

運送業者のトラックに、父と私とで同乗し、国立から木更津まで走った。
雲行きの怪しい日だったが、実家に到着する少し前に雨が降り始めた。
当時の実家(この1年後に転居)は、表通りから奥まったところにあり、表通りと実家の間の路地を家族総出で走って往復し、一連の荷物を雨に濡らしながら運び込んだものだった。

新入社員研修が1ヶ月半ほどあり、配属先が東京の本社と決まった。

当時、京浜東北線北浦和駅から10分くらいのところに独身寮があったので、本社配属の同期3人でここに入った。
寮母さんがいて、朝夕の食事を作ってくれる。
2階建てで15部屋くらいあっただろうか。
1階の玄関を入ってすぐ左の部屋をあてがわれた。6畳間である。

最初の1年は1人部屋だったが、年によって入居人数は増減する。1年目の時点で空室はなかったのだが、2年目になると新入社員が入ってくるということで、2年生と新入社員が相部屋となった。
もう四半世紀以上前のことではあるが、当時の若い者としても、プライバシーにはうるさい年頃で、正直これは嫌だった。
当時は独身寮の退去年齢というのがそう明確ではなく、独身であれば、自分から見てすごいオヤジ(といっても30代前半なのだが(笑))であっても居残っている人が結構いた。
彼らがいるから、俺たちが相部屋の憂き目を見るのだ、と同期の者で盛り上がり、寮長の部屋にねじこんで文句を言ったりした。
寮長にしてもどうしようもない訳で、結局、翌年結果としてまた部屋に余裕が出るまでの1年間は相部屋生活が続いた。
(ただ、この1年間相部屋だったMという後輩とは非常にウマが合い、今に至るまで会社の中では一番仲の良い友人の筆頭である)
この寮には5年住んだ。
入社4年目からは、転勤で本社から在京の支店に移ったが、浦和から通った。

入社6年目に、千葉の現場勤務を命ぜられ、いわゆる飯場暮らしとなる。
事務所は蘇我にあった。
今でこそ京葉線が開通して、始発のターミナル駅として様変わりの蘇我であるが、当時は何もなかった。
木更津生まれの私はよく知っているが、内房線沿線で、蘇我といえば、浜野と並んで何もない駅の最たるものだった。
蘇我駅から10分ほどのところに、プレハブ建ての現場事務所があり、その2階の宿舎の1部屋、6畳間に寮の荷物を運び込んだ。
それまでの引っ越しは全部業者を頼んでいたが、この時は、事務所の先輩が事務所のトラックで北浦和の寮まで来てくれて、荷物を運んだ。大量のレコードを持ち込んで驚かれた。
ここに2年半ほど住む間に結婚が決まり、事務所に通勤可能な今のマンションに所帯を構える。
この時も引っ越しは事務所の人たちの世話になった。

以後今日に至るということである。
現場事務所時代も含めると、千葉市民歴は23年目。

千葉県民、41年
東京都民、4年
埼玉県民、5年
という人生である。

引っ越し回数は、
  木更津→小平
  小平→国立
  国立→木更津
  木更津→浦和
  浦和→蘇我
  蘇我→現在のマンション
の6回を経験していることになる。
しかし、そのすべてが独身所帯の引っ越しなので、家庭を持って荷物が増えた状態での引っ越しの経験はない。

会社に入ってから、異動、転勤は結構あったのだが、千葉の現場4年を除いてはすべて東京勤務で、転居の必要がなかったからだ。
結婚後の20年間でも、今いる職場に今年配置されるまで9回異動している。結構頻繁に職場が変わっているのだが、それが本社の中での部署換えだったり、外に出ても品川勤務だったりということで、転勤につきものの引っ越しが一度もないまま20年を経ることとなっている。

既に年齢的には、今後遠方への転勤が数多くあるとは思えない。あっても1回か多くて2回だろう。その場合も単身になると思う。
ということで、今後所帯丸ごとの引っ越しがあるとすれば、自分で好んで転居する場合ということになる。
ものぐさな私の場合、考えにくいことだが。

今のマンションは今年で築30年の中古も大中古だが、住み慣れているし、環境その他も気に入っている。通勤にも便利だし、浦安のオケ通いにも近い。
一生ここに住んでもいいという気持ちはある。

ただ、一応の夢として、第一には、学生時代を過ごした好きな街である国立に、もう一度住めたら、と思っている。国立で老後を過ごせたら最高だと思う。
もしくは、10年来のオケ通いで、私にとっては第2のふるさととも言うべき新浦安に住むことができればそれもいいなと思う。
そういえば、今日会社で読んだ新聞記事では、「住みたい街」のナンバー1は吉祥寺で、新浦安は6位に食い込んでいるそうだ。