naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

セルフカバーというもの

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さだ(まさし)さんのセルフカバーアルバム、「新自分風土記Ⅲ さだ丼」を聴いた。

 

このアルバムのリリースにあたり、さださんがこういう趣旨のことを言われていたと記憶する(細部は不正確)。

「曲を作ってレコーディングした時の歌が、実は一番下手。その後コンサートで繰り返し歌っていくことで色々変わっていく」。

「オリジナルがいいというお客さんもいるが、自分としては「69歳の今の自分」の歌を改めて残したい」。

 

アーティストとして言われていることの趣旨はとてもよくわかる。

他にも誰だったっけ、確か小田(和正)さんかな、「レコーディングが終わった瞬間に、録り直させてくれ、と思う」と言ってたような気がする。

 

でもねえ、聴く側はまた別、ってところがあるんですよ。

 

少なくとも私はそうで、さださんで言うと「帰郷」とか、小田さんで言うと「LOOKING BACK」はあまり積極的に聴かない。

 

やっぱりオリジナルがいいんだな。自分が初めてその曲を聴いた時のヴォーカル、アレンジ。

ライブはもちろんオリジナルのレコーディング音源と違っていい。じゃなければ聴きに行ったりしない。

しかし、音源として録り直したものというのは、何か違うんだな。

本人として、こちらの方が、より意を尽くした、上手なものになっていて、今現在の自分にとっては納得できるお薦め品です、というのは重々わかるんだけど。

 

ポピュラーミュージック、流行り歌の特性として、「その曲を、いつどこで聴いたのか」といった点と切り離せないところがある。これはきわめてパーソナルな部分であって、他人と共有できない。

 

例えば、昨日、会社帰りに、配信音源をダウンロードした松田聖子のベスト盤を聴いていて、「赤いスイートピー」が出てきた時、この曲がリリースされた1982年1月当時勤務していた品川のオフィスの光景が頭によみがえった。

この曲が出たのが冬の寒い時期だったことと、曲自体には何の関係もないのだが、私としては、曲と冬の記憶はつながっている。

仕事場であるその品川のオフィスでこの曲を聴いたことはおそらくないはずだが、それでも26歳当時にいた職場や、窓の外の景色などが思い出されるのは何故だろう。

「それを聴いたのが他ならぬ自分自身」であり、「その当時の自分」のさまざまな記憶と、その楽曲とが一体となっているからだと思う。

 

もう一つ例を挙げると、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」。今に至るまで名曲として残っていて、時々聴いているが、初めてこの曲を聴いたのが、大学時代、ラジオ文化放送の「グレープのセイ!ヤング」だったことと切り離すことは不可能だ。その時住んでいた小平の四畳半の部屋までもが芋づる式によみがえってくる。

 

時の流れ。

自分の人生が何十年も流れてきていること。

その時々の記憶と、その時々に聴いていた音楽とは分かちがたい。

その意味では、「オリジナルのもの」が絶対である、という感覚は非常に強い。

 

つまり、オリジナルは、聴き手側の人生の一部になっていると言える。

 

それとは別のところで今作られたセルフカバーを、純粋に楽曲そのものだけの部分でとらえ、オリジナルに比べてどうか(アーティスト本人にとってはバージョンアップしている自負があるにせよ)、というふうに受け取ることは、なかなか難しいものがある。

そこには根本的に欠けているものがあると言えるからだ。

 

アーティストにとっては、オリジナルとは、「そこから脱し」、さらに高みをめざしたいものなのだろう。

聴き手にとっては、オリジナルとは、常に「そこに戻りたい」場所でもある。

 

つまるところ、比べられないものなのだと思うが、「奇跡2021」を聴きながら、やはり私は30年前から長く聴いてきた「奇跡~大きな愛のように~」の方が聴きたくなる。

 

今の時点での正直な気持ちである。