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68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「会社に行けない」ということ

ゴールデンウィークの9連休に入った。6月の会社勤め終了前、最後の連続休暇である。

 

これまで、毎日働く中で、年3回の連続休暇は楽しみだった。

 

あと1週間がんばればゴールデンウィークだ、あるいはお盆休みだ、年末年始だ、と心待ちにするのが常。

7連休、あるいは9連休がそろそろ終わりという頃になると、もう2、3日休みがあればいいのに、と思うのも常だった。

 

あるいは、7日、8日と休む内、多少の飽きも出てきて、そろそろ会社へ行く生活に戻ってもいいかな、との思いがよぎることも時たまあった。

 

つまり、生活の領域として、仕事で会社に行くこと、休日に休むことの2つがあった。

ワークライフバランス、と言われるが、ワークとライフの2つの世界。

 

しかし、6月の後半からはその構図がまったく変わる。

 

1週間かもうちょっとの休みを楽しみにしていたが、一生休み(笑)という・・・。

 

会社は、「行かねばならぬところ」だった。

やり甲斐のある仕事、意義を感じる仕事の場合は、自己実現のため、達成感のために、行きたい場所。その意味で、行かねばならぬ場所。

体調のよくない時、やる気が出ない時は、行きたくなくても行かねばならぬ場所。

その時々で趣は異なっても、人生の「場」として、「行かねばならぬところ」だった。

 

2つの世界の内、時間のウエイトとして大きかった会社がなくなるって、どういうことなんだろう。

 

「行かねばならぬところ」がなくなる。

前の会社にせよ、今のA社(西新宿)もB社(三軒茶屋)も、「行かねばならぬところ」でなくなる。

「行かなくてもいいところ」。

それどころか、「行ってはならぬところ」になるわけだ。

 

これまでの長い休みの終わり頃、飽きてきて会社に行きたくなる気持ちは、確かに時々あった。

しかし、これからは「一生休み」の中で、たまには会社に行ってみるか、というわけにはいかない。

 

「会社に行かない」ということ。

「会社に行けない」ということ。

 

それはつまり、会社というのが、単なる場所としてではないことを意味する。

人生の「場」と書いたが、考えてみればそれ以上の意味を含んでいるのだ。

 

「働かない」こと。

「仕事をしない」こと。

 

これを自分がどう受け止めるのか、その時になってみないとわからない。

 

この歳になると、同年代の友人知人にも既にリタイアした者がいる。

中には、やはり働きたくなったと、何らかの仕事をしている者もいる。

 

1日、1週間、365日の時間の使い方として、そういうパターンを欲するということなのかな、と想像したりもする。

 

経済的な意味合いもあるかもしれない。

年金だけではなく、多少のこづかいかせぎ程度でも収入があることの安心感のような?

 

私自身は、今のところ、再度働く予定は持っていない。

これまで仕事のかたわら犠牲にしてきた家の関係での諸々のことに取り組みたいと思っているし、純粋な自分の趣味の部分でひろげ深めたい部分もある。

暇を持て余すことはないと、今のところは思っている。

 

ただ、生活が散漫になるかもしれない、という感じは漠然と持っている。

そのへんが、いざ始まってからどう流れていくか。

 

生活のパターンをいくつかは持ちたいと思うかもしれないな。

それが「会社へ行く仕事」なのかどうかは、一概には言えないが。

 

仕事にも、有償労働と無償労働がある。

無償労働でも、あるいはそのの延長で、仕事でなくとも、何かしら誰かの役に立つ行動はしていきたい気はする。

いずれそういうことを考える時が来るだろうか。

 

その日を前にした今は、そんなことを思う時間が増えてきた。

 

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    満65歳の年度末
       https://naokichivla.hatenablog.com/entry/2021/03/27/110405
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       https://naokichivla.hatenablog.com/entry/65615431