naokichiオムニバス

67歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

音楽「自分史」~人生を変えた電話(浦安シティオーケストラへの入団)

大学に入って始めたヴィオラは、卒業して、1年間は母校オケにエキストラ出演させてもらった後、さわらなくなってしまった。

仕事については、目がまわるほど忙しいという訳でもなかったから、プライベートな自由時間はそれなりにあった。
しかし、もっぱらレコードを独身寮の部屋で聴いたりすることが中心で、演奏といえば、これも寮の部屋でギターをかき鳴らして歌を歌う程度。
ヴィオラの演奏については、遠ざかる一方だった。
市民オケをさがして弾く場所を作るという発想が、当時の私にはなかった。

入社4年目の冬に、たまたま母校オケの演奏会に出させてもらう機会があったが、それはむしろ唯一の例外。
独身寮、そしてその後の転居でも、楽器は持って動き、部屋の隅には置いていた。
そういえば昔はこれを弾いていたんだなあと意識はしつつも、楽器を手にとることはなかった。
「ケースの蓋を一度も開けない年」が珍しくなかった。
「もう自分はこの先の人生でヴィオラを弾くことはないだろう」と思うようになっていた。

ところが、ある日曜日の夜、家に突然1本の電話がかかってきた。
私のその後の生活、人生を一変させる、おおげさでなく「運命的な電話」であった。

これを書くにあたって記録を調べてみたら、それは1994年11月27日のことだった。

日曜日。夕食の最中だった。

大学オケの先輩のS氏であった。S氏はホルン吹きで、私が入学する前にやったチャイ5の2楽章では、歴史に残るソロを吹いた、と聞かされていた。
のみならず、ウィンナホルンの音色に傾倒するあまり、在学中にウィーンまで行ったり、卒業後は音楽関係の企業に就職してしまった。現在は、某音楽事務所の副社長をされている。

S氏とは、在学中は1年しか一緒にいなかったし、新入生には雲の上の人であり、在学中にはさほど会話をかわした記憶もない。
卒業後もまったく接点はなく、もしかすると、S氏の卒業以来だったかもしれない。
ということで、まったく意外な人からの突然の電話であった。

S氏の電話も、確か「一橋オケのOBでホルンを吹いていたSですが、覚えてますか」というような切り出しだった気がする。
私は「ええ、覚えてます」と答えた。そして本題である。
浦安で、「浦安シティオーケストラ」というオケをやっているが、ヴィオラの団員が不足している。
卒業生の名簿を見ながら、京葉線沿線にいるヴィオラ弾きのOBをさがしたら、君が見つかったので、電話をした、というのである。

思いがけぬ人からの電話。また思いがけぬオファーであった。
こちらは最近まったく楽器にさわっていない。
単発で出た入社4年目の母校オケの演奏会から数えても13年のブランクがある。
まったくのペーパードライバー状態である。

もちろん即答はできなかった。
「しばらく考えさせて頂いてご返事します」と言って、その日は終わった。

しばらくどころか1ヶ月考えた。

やはり当時の私にとっては、非現実的な話だったからである。
十数年も遠ざかった楽器。それも、現役で演奏していたのは、5年間だけだ。
これだけブランクがあって、演奏に復帰などできるものだろうか?
それが一つ。

もう一つは、電話で聞いた、「練習は毎週日曜日の午後」である。
当時の私の日曜日の生活は、遅めに起きて、「笑っていいとも増刊号」を見て、昼食。昼食の際には「上岡龍太郎にはダマされないぞ」を見ながらビールを飲むことが多かったから、午後は眠くなってしまって昼寝・・・というようなパターンだった。
そんな生活から、毎週はるばる新浦安まで通うなんてカタギの生活に変われるものだろうか。
この二つが50対50の比率で私を悩ませた。

そして1ヶ月。
もう返事をしないといけない。
毎週は無理だろうけど、月2回程度でもいいんだったら、できるかな。
そんな感覚で、一応、入団する方向に気持ちが向いた。

そして年末もおしつまった12月28日、S氏に電話をした。
演奏もブランクがあって自信がないし、練習も毎週出られるかどうかわかりませんけど、などと、くどくど言い訳をしつつ、S氏から「ともかく一度練習に来てみませんか」という話があったので、わかりました、と答えた。

正月休みの間に、早速、次の演奏会の楽譜一式が送られてきた。
魔笛」序曲、ドビュッシー「小組曲」、チャイ5であった。
本番は3月12日とのことだった。

そして年明け、95年1月15日日曜日、一応楽器を持って、日曜日のこんな時間に乗ったことがほとんどない京葉線の上り電車で新浦安に向かった。
新浦安駅にはS氏夫妻(奥様も大学オケOGでフルート)が迎えにきて下さっていた。
京葉線には、1990年の全面開通以来、通勤で毎日乗っていたが、新浦安駅で下車するのは、もしかしたらこの時が初めてだったかもしれない。
結果として、この駅にその後10年以上も通うようになるとは、この時は想像もしていない。

たまたまこの日の練習は美浜公民館ではなく、小学校の音楽室であった。S氏の車に乗せてもらって向かった。
行ってみると、ヴィオラは一人もいない。
そんな中、ずうずうしくも楽器を出して座らせてもらうことにした。

この日の指導は、団内指揮者のK氏だった。K氏は今でも、団内指揮者として、またホルン奏者として在籍しておられる。
あと覚えているのは、セカンドヴァイオリンに真っ赤な服を着た若い女性がいたことだった。「へえ、こんな若い女性もいるんだ」と思った。この時とても印象に残った彼女は、今弦インペクでセカンドトップのNさんである。

この日やった曲は、ドビュッシーチャイコフスキーだった。
休憩の際にトイレで、連れションの形になったフルートのH氏が、「今日は久しぶりにヴィオラの音が聞こえてよかった」と言われた。いつもはいないのか、と思った。
最初は一人だったが、ドビュッシーをやっている途中で、隣に女性が一人来て座り、ヴィオラは結局二人でこの日の練習を終えた。

練習後、S氏の車で駅まで送ってもらった。
車中、S氏が「こんなオケですけど、どうですか、一緒にやってもらえますか」と言われた。
「はい、お世話になります」と答えた。

こうして、それまで考えてもいなかったヴィオラ演奏への復帰となった。

ブランクがありながらも、オケでの演奏は、こわごわ始めてみるとやはり楽しかった。
最初にS氏からの電話があってから1ヶ月、「新浦安まで毎週通うなんてとてもできない」と思っていた私が、何のことはない、よほどの用事がない限りは、毎週新浦安まできちんきちんと通うようになった。
本当に生活はそれまでと一変したのである。

私の会社では毎年4月1日付で定期人事異動がある。区分としては総合職なので、全国転勤の可能性は常にある。
入団以後、異動があればやめなければならないという状況は毎年あったのだが、今日まで異動自体は6回あったものの、すべて東京都内でのものだったので、結果としては、休団や退団をすることなく、続けてこられた。
あと半月足らずで、練習初参加から丸11年を迎える。

こうして11年近くを振り返ってみると、オケで弾くことは、今では私の生活の中核になっており、「オケのない生活など考えられない」というのが実感である。
しかし更にその前を振り返れば、「オケで弾くことなど考えられない」という時期が、それよりもっと長かった訳である。

こうしてみると、本当に、私の人生は、あの40歳手前のあの日にかかってきたS氏からの1本の電話によって、大きく変わったのだと改めて思う。
正しく「人生を変えた電話」であった。
「運命」というものを感じる。

あの日、声をかけて下さったS氏夫妻は、その後転居に伴って、浦安オケからは退かれた。
しかし、ご夫妻は、私の一生の恩人であると思っている。いくら感謝してもしきれない。

とぎれずに演奏活動を続けてこられたことについては、いくつもの幸運があったからだと思っている。
転勤がなかったこともそうだし、妻の理解があったことが大きい。
それ以上に、私のような者でも追い出されずに在籍し続けられている団の事情(ヴィオラの人数が少ない)が一番大きいだろう。団員の皆さんの温情に支えられて、いさせてもらい続けることができている。

長くやってくると、アマオケについてあれこれ考えもするし、わかってもくる。
誰もが、望みさえすれば、演奏の機会を与えられるとは限らないようだ。
まして10年以上も同じ団体で弾き続けることは、やはり運に恵まれないと難しいことだと思う。

入団丸11年を前に、S氏が入団の機会を与えて下さったことと併せて、今日まで続けてこられた幸せに改めて感謝したいとつくづく思う。

さて12年目。
来る4月に異動があるかもしれないものの、とりあえずは、5月の演奏会に向けての練習に頑張りたい。
「マイスター」、「眠りの森」、「田園」。