naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

やっぱり食わず嫌い? ショスタコーヴィチ

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  (写真上)長崎に向かう飛行機から
  (写真下)ショスタコーヴィチまとめ聴き




3日(土)、4日(日)と、長崎出張。
「長崎リゾートアイランド パサージュ琴海」へ。
子会社が運営する、このホテルとゴルフ場には、正月はプライベートの旅行で滞在した他、会議などの出張で、昨年10月から5ヶ月連続で訪れている。

今回、現地での空き時間を利用して、先日まとめ買いしたショスタコーヴィチを、まとめ聴きした。

現代の音楽を聴かない訳ではない私だが、なぜかこれまで、35年余のクラシック鑑賞歴にあって、ショスタコーヴィチの音楽は、5番のシンフォニー以外、ほとんど聴かずにきた。
今、浦安オケで5月の定期演奏会に向けて、その5番を練習しているが、せっかくのこの機会、5番ばかり聴いているよりは、他のショスタコーヴィチの作品も聴く方が参考になるだろうと思って、何枚かCDを買った。
それを、長崎に持ってきたのだ。

移動も含め、今回の出張で聴いたショスタコーヴィチ作品は以下の通り(聴いた順)。

  弦楽四重奏曲第3番      ジュリアード弦楽四重奏団
  弦楽四重奏曲第15番      ジュリアード弦楽四重奏団
  ピアノ五重奏曲        ブロンフマン+ジュリアード弦楽四重奏団
  交響曲第7番「レニングラード」 ゲルギエフ
  交響曲第10番         カラヤン(81年録音)
  ヴァイオリン・ソナタヴィオラソナタ(弦楽オーケストラ伴奏版) クレーメルバシュメット

さて、聴いてみて。

やっぱり食わず嫌いだったのかな、と思った。

昔から思っていることだが、近現代の音楽は、基本的に調性が稀薄だから、まずその点で好き嫌いが分かれるだろう。少なくとも万人が好むようなものではない。
食べ物の味にたとえれば、古典派、ロマン派までの、調性が明確な音楽というのは、「わかりやすい味」だ。果物やスイーツを筆頭に、甘い、辛い、すっぱい、苦い、といった、味のキャラクターが明確な食べ物のようなものだ。
わかりやすい味を感じた上で、それが好きか嫌いかは、その後の問題だ。

ところが、同じ食べ物でも、豆腐あたりになると、これは、甘いとか辛いとか、端的な表現ができなくなってくる。そして万人が「おいしい」「好きだ」というかどうかはわからなくなる。
牡蠣などもそうだと思う。ただ、好きな人にとっては、こたえられないおいしさがある、そういう味だろう。

言ってみれば、近現代の音楽というのは、これは適切なたとえではないと思うが、さらにその延長線上の、例えばホヤだとかカラスミなどの珍味系というか、そんな領域に近いのではないかと思ったりする。

これも昔から思っていることだが、そういう近現代の音楽を好きになれるかどうかは、メロディーやハーモニーを追うのでなく、要は、その響きを、テイストとして受け入れられるかどうかではないだろうか(但しこれは私個人の場合であって、もっと聴く感性が豊かな人であれば、もちろん、近現代の音楽にも細かい襞を聴くのだろうと思う)。

私にとって、バルトーク武満徹メシアンなどは、そういう意味で好きな作曲家だ。
ただ、これも食べ物にたとえていうと、多くの日本人が、定期的にラーメンやカレーなどを無性に食べたくなるような意味で、これらの近現代の音楽を、たまらなく聴きたくなる、生理的に欲する、ということは、私にはない。
やはり、「聴こう」という意志、あるいは覚悟をもって臨むという感じだ。

今回のショスタコーヴィチまとめ聴きも、自分が今練習中だという事情がなければ、決行しなかっただろうが、とりあえず、1回目、やってみてよかったと思った。

やはり、どれも気軽に聴こうという気になる音楽ではない。それは確かだ。
しかし、これまで色々な活字媒体で、ショスタコーヴィチの音楽というのは、やたら暗くて鬱々どろどろ、気が滅入るような音楽だというイメージを持っていたのも、また違うと思った。少なくとも、今回聴いた作品は。

私が長く親しんできた、前記の作曲家の作品と同じように、ショスタコーヴィチのテイストは、決して嫌いなものではない、と思った。
今回聴いた中では、15番の弦楽四重奏曲、「レニングラード」の3楽章あたりが、特に気に入った。
・・・ような気がする。まだよくわからないが。

ともかく、他の作品で、買ってきたがまだ聴いていないものがある。当面、それらも含めて、5月までは、なるべくショスタコーヴィチ漬けになってみようか、と思ったのだった。