naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「技術の確立」の意義

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一昨日、昨日と、カラヤンベルリン・フィルベートーヴェン交響曲をまとめ聴きした。
このコンビの最初の全集、61年、62年録音のものだ。

少し前に、62年録音の「運命」を久しぶりに聴いて、「こんなにすばらしい演奏だったのか」と改めて思ったのがきっかけ。

この全集は、分売の形で、1番2番を除く7曲を持っているが、それを2日間で、集中して聴いた。

引き締まった演奏だ。

一般的なカラヤンのイメージである、70年代以降の録音に顕著な豊麗さは、60年代初頭のこの時点ではまだなく、非常にすっきりとして、しかし力のこもった、筋肉質の痩身、という演奏だ。

この全集が世に出た頃は、さぞ、新鮮なものとして受け止められたことだろう。
カラヤンベートーヴェン全集というと、その後、2回録音されているので、この初回の全集は、今となると最上級の評価を得ているとは言えないが、私としては、この全集には、非常にインパクトを受けた。

ところで、演奏そのものとは別に思ったことがある。

今回聴いた3番以降の7曲は、すべて62年録音だ。
62年というと、昭和37年。
私が小学校に上がった年だ。

46年も前。ほぼ半世紀が経過する。

クラシック音楽にはまだ何の縁もなかった私が、木更津の小学校によちよち通い始めていた頃、遠く離れたベルリン郊外、ダーレムのイエス・キリスト教会で録音されたこの演奏。

同じ私が、50歳を超えた今になって、その演奏を聴いて、感銘を受けている。

これって、やっぱりすごいことだね。

「録音」という技術があるから、こうして時空を超えて、音楽を楽しむことができる。

今回、特に思ったのは、「ステレオ録音」という技術が確立されたことの意義だ。

61年、62年といえば、まだまだステレオ初期。
その後のデジタル録音や、CDというメディアもまだ世の中にはなかった頃だ。

しかし、この全集は、半世紀近く前の録音ながら、今聴いても、まったく申し分のない音質で楽しむことができる。
(この全集中の「第九」は、先日ガラスCDで税込200,000円で発売されたものだ。同じ演奏を、私は廉価盤「カラヤン文庫」、税抜1,165円のもので聴いたが、2ケタ違うCDで何の不足もない)

それを思うと、やはり「ステレオ録音」の確立というものが、レコードにとって、最も大きいステップアップだったと痛感する。

つまり、46年前の録音を、今、不満なく聴けているのは、その時点で達したレベルが相当高かったということであり、基本的には今に至るまでそのレベルが続いていると言えるのだろう。

一方、ステレオ録音以前の、モノーラル時代にさかのぼった場合。

例えば、フルトヴェングラーのあのバイロイトの「第九」は、51年の録音。
このカラヤンベートーヴェン全集に先立つこと、わずか10年ちょっとでしかない。

以前も書いたが、フルトヴェングラーはステレオ録音に間に合わず、ワルターは間に合った。

この違い、この無念は実に大きい。

ステレオ録音の技術開発が、もう10年早かったら。
あるいは、フルトヴェングラーが、もう10年長生きしていたら。

カラヤンのこの全集と同じような、優秀な音質で、フルトヴェングラー数々の名演奏を、今も楽しむことができていたのだ。

「技術の確立」の意義、そして、時代のめぐりあわせの運、不運。
そんなことを考えつつ、カラヤンベートーヴェンを聴いた2日間だった。

(フルトヴェングラーが長生きしたとして、カラヤンのように、レコードというメディアに興味を示したかどうかはわからないが、それは別の話だ)