「ポストホルン」では、前から不思議に思っていたことがある。
第7楽章のフィナーレ、フルートがtacetなのだ。
第3楽章、第4楽章で、あれだけフルートの魅力を全開したモーツァルトが、この華やかなフィナーレでは、ただの1小節もフルートを吹かせないのだ。
オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニは楽章全体で活躍する、基本的にトゥッティの音楽なのに、フルートが出てこない。
オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、ティンパニは楽章全体で活躍する、基本的にトゥッティの音楽なのに、フルートが出てこない。
改めてスコアをあたってみたら、フルートがないのは、フィナーレだけでなく、1・2・5・6楽章もだった。
つまり、あの魅力的な中間楽章だけ、フルートを使っている。
つまり、あの魅力的な中間楽章だけ、フルートを使っている。
でもやっぱり不思議だ。
私などから見ると、少なくとも両端楽章にフルートがあっても、別に邪魔にはならないと思うのだが・・・。
私などから見ると、少なくとも両端楽章にフルートがあっても、別に邪魔にはならないと思うのだが・・・。
モーツァルトの天才の感覚では、オケの全奏の中に、フルートの音が混じることが許せない、何かがあったということなのだろうか。
まさか、入れるの忘れて書いちゃった(笑)ってことはないよね。
さらに思ったのだが、オケの中で、みんながあのフィナーレをがんばって楽しそうに演奏している時に、一つも音を出すことができずにそこに座っているフルート奏者って、どういう気持ちなんだろう。
でも、考えてみれば、私は弦楽器なので、大体の曲は、「常に弾いている」訳だが、管楽器の人、あるいは特に打楽器の人などは、休んでいる時間も結構あるんだよね。
休んで、吹いて、休んで、吹いて。
叩いて、休んで、叩いて、休んで。
叩いて、休んで、叩いて、休んで。
これは、弦の者にはなかなかわからない感覚かもしれない。
打楽器の人なんかは、何十小節も休んで叩く時に、練習で指揮者が止めて返すと、数え直すのが大変だって聞いたことがある。
弦は、演奏会のメイン曲のフィナーレの曲締めなんかは、いつも必ず参加しているって感じだけど、その時に音がないパートも結構あるんだろうな。
弦で、弾かずに演奏会が終わるって言うと、これまで経験したメイン曲だったら、「悲愴」くらいかな。