naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

ら抜き言葉

ら抜き言葉」。

「見れる」、「食べれる」、「来れる」、「着れる」、「出れる」といったたぐいの言い方。

近年の「日本語の乱れ」を嘆く際に、まず槍玉にあがるのが、これだ。

私も個人的には抵抗があり、自分では断じて使わないが、周囲に、「ら抜き言葉」を使う人は多い。

昔、現場勤務だった頃、一緒に仕事をしていた女子事務員が、やはり日本語には敏感な人で、周囲の者が会話の中で「ら抜き言葉」を口にすると、本人には聞こえないような小声で、「(今)来れる(って言った!)」などと、二人してツッコミを入れていたものだ。

さらに昔、さだ(まさし)さんの「飛梅」を初めて聴いた時、

  「来年も二人で来れるといいのにねと」

という歌詩が出てきたのに、少なからず衝撃を受けたのをおぼえている。
日本語を大切にするさださんが、と。
(さださんは、しゃべりの中では「ら抜き言葉」を使わないし、歌詩に出てきたのもこれ1曲だけだと思う)
(メロディラインの都合上、そうなったとは言えないと、当時から思っている。歌詩を「来られるといいのにねと」にしたにせよ、「来(こ)」を前の小節の最後に16分音符でアウフタクトのように入れれば済むことだと思う)

今、テレビを観ていると、正しい言葉を仕込まれているアナウンサーでも、民放だと、報道はともかくとして、バラエティ番組などの場合、「ら抜き言葉」が出るのを時々聞く。
NHKのアナウンサーは、さすがにそうしたことはないが、朝の連続テレビ小説のセリフあたりだと、「ら抜き言葉」が混入してくるようになった。

mixiに、「ら抜き言葉撲滅委員会」というコミュニティがあり、メンバー登録している。
ここでのトピックなどを見ると、「ら抜き言葉」は許せん!というスタンスに満ち満ちており、嘆かわしい現状を憂い合い、いかにしたらそれを是正できるか、という議論が目立つ。

私個人はというと、そこまでの気持ちはない。

自分自身が、どこからつつかれても完璧な日本語を使えているという自信がないのが一つ。

それから、月並みな意見ではあるが、言葉というものは、時代の流れの中で変化するのが避けられないだろう、という考え。

今、自分が正しいと教えられ、正しいと信じて使っている言葉も、昔は間違いだったかもしれない。
たかだか50年少しの人生で自分が身につけてきた「正しい言葉」が、未来永劫そうだとは言えないだろうと思う。
それを絶対の正義として、そこから外れた言葉の使い方を殊更にあげつらうことがどうなのか。

ちょっと別の観点からだが、この問題については、ちょっと考えさせられたことがある。
それは、今から5年前、当時の上司のことだ。この上司が、「ら抜き」言葉を使っていた。

彼は、超有名私立大学を卒業し、仕事では社内でも有数の切れ者。上場企業の本社部長になるのも当然、という人物だった。
大変な読書家で、あらゆる方面に博識。仕事の面のみならず、尊敬できる人物だった。

団塊の世代、当時で50代半ばだったと思う。だから、「最近の若い者の言葉の乱れは」という話ではない。戦後のきちんとした国語教育を受けていたはずの人だ。
まして、半端でない読書家である。さまざまな分野の本を読んでいたが、そうした本には、「ら抜き言葉」での記述はまずないはずだ。

にもかかわらず、彼は、当たり前のように「ら抜き言葉」を使っていた。
私は、そのことが不思議でならなかった。

この上司との約2年のつきあいで、私は、「ら抜き言葉」問題が、そう単純な話ではないかもしれない、と思うようになった。

つまり、上に書いたような、日本語の「正しい」「間違い」の問題ではないように思えてきたのだ。
ら抜き言葉」は、誤用だから直しなさい、と言って済む話なのかどうか?
まだ答えは見つからない。

ということで、現時点での私のスタンスは、

  抵抗はある(気になる、という以上のレベル)
  しかし、使っている人に、それは間違いだと指摘して直してもらいたいとまでは思わない
  でも、自分では絶対に使わない

というところだ。

以下は余談。

「ビストロSMAP」で、中居君が毎回、「お好きな料理を言っていただければ、何でも作らさせてもらいます」と言うけど、あれも気になるね。

さ入れ言葉」。

中居君の場合、「もらいます」も敬語として間違いなので、二重に気になってしまうのだ。
誰か指摘してあげればいいのに。
司会者としての稀な資質を持つ人なのだから、忙しいだろうけど日本語の基本をもう少し勉強してもらうといいな、と残念に思う。