床屋ネタ、もう一つ。
今日行った新浦安の床屋に限らず、日頃よく行く、家の近くの床屋でもそうなのだが、顔を剃った後、アフターシェーブローションとかの処置をしてから、それを拭うように、顔面にタオルをかぶせられることがある。
もちろん、顔剃りの際の蒸しタオルも顔にかぶせられるが、あれとは違って、濡れていないタオルがかぶせられると、ついつい、死んだ人の顔にかぶせる白い布を、どうしても連想してしまう。
私の場合。
私の場合。
で、変な話だが、床屋に行くたびに、そして、床屋に行った時だけ、「自分が死んだ時」について思いをはせることになるのだ。
ほんとに死んで、横たわっている自分の顔に白い布をかぶせられた時は、自分はそれを実感できないんだよね。
今、生きてて、床屋だから、顔にかぶさるタオルの感覚を感じられるけど。
今、生きてて、床屋だから、顔にかぶさるタオルの感覚を感じられるけど。
さらに思う。
「いずれ、自分も死ぬんだよね」。
忙しい日々の中では、忘れているこの事実。
さだ(まさし)さんが、昔、確かアルバムのライナーか、ファンクラブの会報に書いていたが、「人間の死亡率は100%なのだ」。
さだ(まさし)さんが、昔、確かアルバムのライナーか、ファンクラブの会報に書いていたが、「人間の死亡率は100%なのだ」。
宇野千代さんの著書に、「私何だか死なないような気がするんですよ」というのがあった。
正直、自分もそうかな、自分だけはそうありたい、という気持ちになることがあるが、その宇野千代さんも、98歳で亡くなった。
正直、自分もそうかな、自分だけはそうありたい、という気持ちになることがあるが、その宇野千代さんも、98歳で亡くなった。
死ぬんだよね、やっぱり。
自分の人生は、これもさださんに教えられた思想で、「自分が主人公」なのだが、だから、他の登場人物はすべて死んでも、主人公の自分だけは死なずに過ぎるのだろうか?
忙しい日々の中で、忘れているこんなこと(=重たい事実)を、単なる生活習慣で、定期的に通う床屋で、いつも思い起こさせられているのが、何か、アンバランスで面白い。
死の恐怖よりは、その面白さの方が、今日のところは上回っている。
※ところで、独立のカテゴリーを立てておりませんが、隠れたシリーズで「床屋」というのがあります。
以下はその過去記事。
以下はその過去記事。
床屋2~床屋歴と、ある出来事
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/18957712
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/18957712
床屋5~かゆいところはありませんかの不思議
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/18960809
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/18960809
床屋7~どっちが上下するか
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/60146594
https://naokichivla.hatenablog.com/entry/60146594