朝青龍の引退は、事の流れから予想できなかったことではない。
もとより、サッカー事件のバッシングあたりから、朝青龍という人は、日本の力士であることに、さほどの未練はないのではないか、と思っていた。
あの、出場停止でモンゴルに帰っていた時期、ひょっとすると、もう日本には戻ってこないことだってあるかもしれない、と感じたこともある。
あの、出場停止でモンゴルに帰っていた時期、ひょっとすると、もう日本には戻ってこないことだってあるかもしれない、と感じたこともある。
日本国籍や年寄株を取得する意向があったのかどうか、詳しくは知らないが、他の外国人力士が帰化したりするのを見るにつけ、朝青龍には、協会に残って部屋を持とうとか、後進の指導にあたろうとかいう気持ちが稀薄だったのではないかと推測する。
実際、朝青龍を親方名にして協会に残るという話は、これまでのところ出ていない。
横審の厳しい見解を理事会経由で知り、引退勧告される前に自分から引退表明するのが、もはやぎりぎり残された選択肢だった、ということだろう。
解雇よりは、本人も協会も体面が保てたし、横審も、全会一致で引退勧告を決議したという事実は残せた。
本人としては、現役に格別の未練はないのだろうと思う。引退会見では、涙を見せたりしていたが、基本的に憮然とした表情だったのは、現役への未練からというよりは、あの当日の流れ、短時間で引退に追い込まれた流れに対する不本意な気持ちによるものではなかったか。
既にハワイに行っているというし、本人はもう割り切っているように思う。
そして、そのことが、今回の事件を含めて、朝青龍という人にまつわる問題の本質なのだろう。
私が終始感じてきたのは、朝青龍は、アスリートとしてはすばらしいものがあったということだ。そのたぐいまれな運動能力を十全に発揮して、若くして横綱にまでなった。
しかし、今回の引退で多くの人が指摘しているように、相撲という競技は、スポーツとしてだけ見るべきものではなく、また横綱という地位は、単に強いアスリートに与えられる、いわばチャンピオンとは違う。
しかし、今回の引退で多くの人が指摘しているように、相撲という競技は、スポーツとしてだけ見るべきものではなく、また横綱という地位は、単に強いアスリートに与えられる、いわばチャンピオンとは違う。
また、デーモン木暮閣下も、今回の引退については、横綱という地位が、単なる最強者でないことを、朝青龍は最後まで理解できなかった、と指摘している。理解できぬまま番付だけが上がってしまったこと、暴走を諫める者がいなかった点、朝青龍は被害者の面がある、とも。
私は、今回の一連の報道を読んでいて、デーモン閣下のこのコメントに、最も共感をおぼえた。
私も、朝青龍が、アスリートとして、強ければいいのだ、と考えているように思える点を、常々疑問に思ってきた。しかし、遠いモンゴルから来て、高校相撲からプロ入りし、横綱に昇進したことも、偉業と認めるべきだと思ってもきた。
朝青龍自身の、アスリートとしての精進や志と、日本の相撲というもののギャップは、本人の勉強不足、認識不足として責めていいものなのか。
私が、たびたびのバッシングに対して、朝青龍擁護の記事を書いたのは、主にそういう考えからで、力士としての朝青龍のあり方そのものを認めてのものではない。
ギャップを埋めるべきは、彼を受け入れた相撲界の側ではないのか。それを言わずに、本人だけを責める論調には、どうしても納得がいかなかったからだ。
私が、たびたびのバッシングに対して、朝青龍擁護の記事を書いたのは、主にそういう考えからで、力士としての朝青龍のあり方そのものを認めてのものではない。
ギャップを埋めるべきは、彼を受け入れた相撲界の側ではないのか。それを言わずに、本人だけを責める論調には、どうしても納得がいかなかったからだ。
今回の件、現役力士が一般人に暴力をふるって重傷を負わせた、という点については、議論の余地がない。引退に追い込まれても仕方がないと言えるかどうかは、暴力そのものが事実だったのか、どういう経緯だったのか、という点がポイントなのだが、この部分は、いまだに明瞭になっていないように思う。
会見では、「報道と事実に相当異なる点がある」と朝青龍は言っていた。引退は本人の意思によるものだから、この点に深く突っ込むことはできないのかもしれないが、これが、処分としての解雇や番付降下となれば、実際はどうだったのか、もっと徹底した検証が必要だっただろう。
自ら引退した朝青龍としては、その部分、言いたいことがあったのかもしれないが、胸にしまってあっさり土俵を去った、ということなのだろう。
このあたりにも、アスリートとしては、やることをやったし、もういいのだ、というところが見える。
このあたりにも、アスリートとしては、やることをやったし、もういいのだ、というところが見える。
横綱の品格について問われ、「土俵に上がれば鬼にならなければならないから」と答えていた。しかし、「土俵の鬼」と言われた初代若乃花を始め、土俵で鬼となった力士は数知れない。問われているのはそういうことではないのだ、と、理解できなかったということだ。
私は、やはり周囲の罪が重いと思う。たぐいまれなアスリート能力で、7連覇、年間6場所制覇という、前人未踏の記録を作った、すばらしい力士を、本当の意味での横綱にするのは、周囲の義務だったと思う。
アスリートとしての志に、日本の相撲の横綱の何たるかを教えるべきだった。
それを知るいとまもなく横綱に昇りつめたのは、本人が悪いのではない。そこから先は、周囲がその横綱に魂を入れるべきだったのだ。
アスリートとしての志に、日本の相撲の横綱の何たるかを教えるべきだった。
それを知るいとまもなく横綱に昇りつめたのは、本人が悪いのではない。そこから先は、周囲がその横綱に魂を入れるべきだったのだ。
朝青龍の問題は、常に高砂親方が批判される。しかし、度重なる不祥事に際し、師匠の指導力、管理能力のなさが明らかになったのなら、大きく言えば、協会の理事長、理事会が動くべきだったと思う。
日本の相撲の伝統を大切にしたいのなら、協会を挙げてそうするべきだったのでは?
日本の相撲の伝統を大切にしたいのなら、協会を挙げてそうするべきだったのでは?
もしくは、「一門」だ。
今回の理事選において、一門のあり方、意義がずいぶん議論された。報道を読む限り、一門の結束を重視する多数派(貴乃花側でない方)は、一門というものがなくなったら、相撲界の伝統が薄れると主張し、投票の締めつけもしたとされるが、そこまで一門が大切ならば、少なくとも高砂一門の親方衆は、自分の一門の横綱に対する指導力を発揮すべきだったのではないかと思う。
今回の理事選において、一門のあり方、意義がずいぶん議論された。報道を読む限り、一門の結束を重視する多数派(貴乃花側でない方)は、一門というものがなくなったら、相撲界の伝統が薄れると主張し、投票の締めつけもしたとされるが、そこまで一門が大切ならば、少なくとも高砂一門の親方衆は、自分の一門の横綱に対する指導力を発揮すべきだったのではないかと思う。
(ついでに言えば、理事選においては、一門というものを、改革されるべき旧弊と位置づける論調が、マスコミにも世論にもめだったように思う。一方で、朝青龍引退については、伝統を理解しなかった横綱を批判している、というのは、矛盾がないか、と感じる)
さて、これからの相撲界だ。
ちょっと前、朝青龍がケガ続きで、成績が落ちてきていた時、もうこの横綱も潮時かな、と思った。
しかし、昨年、2回の優勝、そして特に先日の1月場所では、ずいぶん持ち直した内容で堂々の優勝。
その点では、この引退は惜しいと言わざるを得ない。
把瑠都相手にあれだけの相撲をまだとれたのだし。
しかし、昨年、2回の優勝、そして特に先日の1月場所では、ずいぶん持ち直した内容で堂々の優勝。
その点では、この引退は惜しいと言わざるを得ない。
把瑠都相手にあれだけの相撲をまだとれたのだし。
まだ白鵬と優勝を分け合う時代を続けてほしかった。
白鵬が、昨年、本割では4敗しかしなかったにもかかわらず、優勝は3回しかできなかった。1月場所でも、思わぬ崩れをみせて、朝青龍に優勝をさらわれた。東京場所では久しく優勝していない。
これは、白鵬に現状では何かが足りないからだ、と思う。逆に、力は落ちてきていても、昨年白鵬に優勝決定戦で2回勝った朝青龍には、まだ何かがあるのだ、と思った。
これは、白鵬に現状では何かが足りないからだ、と思う。逆に、力は落ちてきていても、昨年白鵬に優勝決定戦で2回勝った朝青龍には、まだ何かがあるのだ、と思った。
それを、白鵬は、朝青龍と競り合う時代の中で、自分のものにしてほしかった。
そのチャンスは失われた。
この点、今後の相撲界にとっては、損失だと思う。白鵬はまだまだ朝青龍から学ぶもの、身につけるものがあったのだ。
そのチャンスは失われた。
この点、今後の相撲界にとっては、損失だと思う。白鵬はまだまだ朝青龍から学ぶもの、身につけるものがあったのだ。
大関陣の現状を見ると、これで白鵬の一人勝ちの時代になるという見方が自然だが、案外そうならないかもしれない。
つまり、下から並び立つ者が出てくるのでなく、昨年、ほぼ確固たる完成型になったと思われた白鵬が、朝青龍を喪失したことで、失速するのではないか、という懸念だ。
つまり、下から並び立つ者が出てくるのでなく、昨年、ほぼ確固たる完成型になったと思われた白鵬が、朝青龍を喪失したことで、失速するのではないか、という懸念だ。
ライバルがいないからと言って、独走の時代が築けるものでは必ずしもないことは、過去の歴史が証明している。