naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

白鵬の大台60連勝と玉の海

9月場所13日目、白鵬把瑠都を上手投げに下して60連勝。とうとう大台に乗せた。やはり、59で止まるのと、60に乗るのとでは印象が大きく違う。すごいところまできたものだ。

把瑠都もいい相撲をとったが、白鵬の相撲の厳しかったこと。ますます調子が上向いてきた。

再三書くが、53連勝、54連勝のあたりでは、白鵬も精神面でしんどいものがあったのだろう。相撲に乱れが出ていたが、ここにきて、磐石、完璧の度合いを深めている。

場所中盤では、大関陣の好調もあって、さすがに4場所連続の全勝は難しいかと思ったが、明日の相手は、今日日馬富士に情けない負け方をした琴欧洲だし、千秋楽は、白鵬としては最もイヤな相手である日馬富士だが、やっと今日勝ち越した状況では、五分以上にはとれるはず。

62連勝、可能性は高い。

朝青龍の7連覇の時もそうだったが、唯一の強者が常にトップを走り、対抗馬たるべき大関陣が先に脱落していく独走の構図が、この連勝中の白鵬にも確立されている。

対抗馬がいない状況下での連勝記録伸長は、いささか価値が下がる感も否めないのは事実だ。

あの不祥事がなく、朝青龍が今いたら、と思う。昨年のように優勝を交互に分け合う形になっていただろうか。

しかし、今年1月場所時点で、朝青龍白鵬の対戦成績は、白鵬の7連勝。

朝青龍の全盛期は既に終わりかかっていたと言えるから、朝青龍がいたにしても、両者の対立の時代は、そう長くは続かなかっただろう。

下から追いかけてくる存在がいない以上、早晩、白鵬の独走時代は到来していたと言えると思う。

思ってみれば、その朝青龍も、大鵬も、千代の富士も、基本的には対抗馬不在の時期が長かった。

「栃若時代」を皮切りに、「○○時代」との言い方が常にされてきたが、ある程度の期間、ライバル二人が覇を競った時代というのは、栃若の他では、輪島と北の湖、そして、貴乃花と曙くらいではないか(柏鵬時代は、大鵬が偉大過ぎたし、北玉時代は、玉の海の急逝であまりに短過ぎた)。

自分自身が強くなることは、自己の素質や努力のたまものだが、同レベルのライバルが同時期にいるかどうかは、自分ではどうにもならない世界だ。

我々観る側も、それが強者の宿命というふうにとらえ、せっかくの記録の価値を低めてとらえることはやめるべきなのかもしれない。

そんなことを考えるにつけ、思い出すのが、横綱玉の海だ。

玉の海横綱としての成績を以下にふりかえる。

昭和45年3月場所 ※新横綱。優勝は14勝1敗の大鵬玉の海の2敗は大鵬北の富士
   ○○○○○○○○○○○○●○● 13勝2敗

昭和45年5月場所 ※優勝は14勝1敗の北の富士玉の海の3敗は福の花と北の富士大鵬
   ○○○●○○○○○○○○●●○ 12勝3敗

昭和45年7月場所 ※優勝は13勝2敗の北の富士。2ケタに届かず、横綱在位中の最低成績。
   ●○●○●○○○○○●○●○● 9勝6敗

ここから、俄然玉の海の充実期が訪れる。

昭和45年9月場所 ※横綱としての初優勝。千秋楽、北の富士に敗れて全勝を逸する。
   ○○○○○○○○○○○○○○● 14勝1敗 優勝(3回目)

昭和45年11月場所 ※千秋楽、1敗の大鵬に敗れて全勝を逸し並ばれるが、決定戦を制して連覇。
   ○○○○○○○○○○○○○○● 14勝1敗 優勝(4回目)

昭和46年1月場所 ※千秋楽、1敗の大鵬に敗れて全勝を逸し並ばれ、決定戦にも敗れて3連覇も逃す。大鵬にとっては、これが最後(32回目)の優勝となった。
   ○○○○○○○○○○○○○○● 14勝1敗

昭和46年3月場所 ※1敗は前の山。千秋楽、1差をつけての大鵬戦に雪辱、すんなり優勝。
   ○○○○○○○○○●○○○○○ 14勝1敗 優勝(5回目)

昭和46年5月場所 ※優勝は北の富士。全勝優勝の先を越される。玉の海の2敗は清國と北の富士
   ○○○○○○○○○○○○●○● 13勝2敗

昭和46年7月場所 ※悲願の全勝優勝達成。
   ○○○○○○○○○○○○○○○ 15戦全勝 優勝(6回目)

昭和46年9月場所 ※優勝は全勝の北の富士玉の海の3敗は長谷川と大麒麟北の富士
   ○○○○●○○○○○●○○○● 12勝3敗

昭和45年9月場所からの6場所で、84勝6敗、優勝4回。すごい成績だし、実際、この時期の玉の海は本当に強かった。

しかし一方、3場所連続で千秋楽、結びの一番に敗れて全勝を逸するという、これまた稀有の経験もしている。
特に、昭和46年1月場所では、今度こそと三たびの挑戦をした全勝を逸したばかりでなく、本割、決定戦と大鵬に敗れて優勝までさらわれた。

玉の海ひいきだった私は、とても悔しい思いをすると同時に、もう晩年にきていた大鵬の強さを思い知らされた。
この時、玉の海が支度部屋で取り囲む記者たちに、「何のこれしき!」と語った話は有名だ。

翌場所、千秋楽を待たずに土がついてしまったが優勝。

しかし、その翌場所、あれほど再三近づきながら手が届かなかった全勝優勝は、ライバルの北の富士がさらっていった。大鵬が引退した場所である。

そして、翌7月場所、とうとう悲願の全勝を果たした時は、私も自分のことのように喜んだものだ。
理不尽とさえ思った玉の海の悲運が、やっと報われたと感じた。

このような経過だから、とてもとても強かった玉の海だが、目立った連勝記録は作れなかった。

また、昭和46年9月場所後、突然の病に、現役横綱として急死するという、とんでもない不幸に見舞われたため、優勝回数も6回にとどまった。
何しろ、横綱在位僅かに10場所なのだ。

冒頭から記した、白鵬、あるいは朝青龍が、対抗馬不在の中で、数々の記録を達成したことを思う時、玉の海の場合には、先輩横綱大鵬、またライバルの北の富士の存在が大きくたちはだかったことに、様々な思いがよぎる。

「記録より記憶に残る選手」という言い方がされるが、玉の海の場合もそう言えるだろう。

記録の面では、名前が挙がることの少ない横綱ではあるが、記録が達成されなかった事情、その陰のドラマを忘れずにいることは、相撲ファンとしての大切な責務であろうと思う。

白鵬朝青龍の、対抗馬なき孤高の記録を正当に評価することも大切だし、記録として平凡ではあっても、存在価値のあった力士を、記録の面だけから忘れ去ることがないようにすることも、同様に大切だと思うのである。