naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

我々の幻想交響曲~熱狂を客席に伝えられるように

来月本番を迎える定期演奏会。そのメインは、ここでも再三書いているが、ベルリオーズ幻想交響曲

まあとにかく大変な曲だ。

95年1月にこのオケに入団して、9月、2回目の定期演奏会ドヴォルザークの「新世界」他を演奏した。

その時、妻に指摘されたのが、「演奏しながら動きすぎ」。感興にまかせてアクションたっぷりに弾いていたと記憶する。
音楽を職業とする妻から言われたのは、「感動するのは客席。演奏している本人が感動しちゃいけない」。

もっともな指摘と、以後、忘れてはいないが、なかなか実行するのが難しい。
技術的な未熟さから、余裕がなく、ついつい夢中になってしまう。

個人でなく、オケ全体としてもそういうところがあるだろうと思う。

興奮、感興に自ら没入し、あるいは、余裕のなさから夢中になってしまう・・・。

さて、今回の「幻想」である。先日書いたが、個人的には、大学オケや別オケも含めて、これまで弾いてきたどのメイン曲よりも厳しい状況にある。

そんな一団員が、オケ全体の出来を云々する資格もないのだが、今回、オケ全体も、これまで手がけてきたどの曲よりも、余裕には遠いのではないかという気がする。

過去、マーラーの1番や、ショスタコーヴィチの5番なども演奏しているが、その時の方が、ここまでいっぱいいっぱいではなかったように記憶する。

現時点の練習での状況だと、我々の「幻想」は、端的に言えば、客席を置き去りにした演奏になってしまわないか、という不安がある。

客席にお客様がいようといまいと、舞台上の自分たちのことで精一杯、というような。

いくら、地獄の狂気を表した音楽であっても、その狂気、あるいは熱狂を、客席に伝えるのが、演奏する者の責務だ。

余裕なさのあまり、お客様なんか知ったこっちゃない、という格好で、自分たちが地獄の阿鼻叫喚に惑溺してしまっては、客席から見たら、それはつまり見世物。
オーケストラが自分たちに何かを届けたくて演奏しているのを聴くのではなく、勝手に向こうの舞台上で、オーケストラが自分らだけで忘我の大騒ぎをしているのを見物している、というふうに思われてしまう。

それじゃだめだよね。

我々の熱狂がお客様にも伝わって、何かを感じていただけないと。

思ってみれば、我々はまだ、このシンフォニーを全曲通して演奏したことがない。
20キロ、30キロのランニングは重ねているが、まだフルマラソンの距離を走ったことがない、というようなものだ。
仮にそれで、いきなりフルマラソンの大会に出ても、好記録はおろか、完走できるかどうかもわからないだろう。

我々はまだそういう段階にいるし、それでさえ、いつもへとへとになっている。

先日の集中練習で、本番指揮のY先生が言われたが、この熱狂に必要なエネルギーが身体にあるかどうか、ということだろう。

全曲を演奏しきる体力がなかったら、余裕をもった演奏はできない。

そして、精神的にも。
先日の練習で、Y先生に「フーガは冷静に!」と指摘された。
夢中で弾いていてはいけない、ということだった。
練習では冷静に音を取り、まわりのパートがやっていることも聴けないと、本番では崩れる、とも言われた。

心身の余裕。

残り1ヶ月の課題は、個人としてもオケ全体としてもそこだろう。

カニック的に弾けないところはまだまだたくさんあるが、それは個人練習の領域。

オケ全体としてのパフォーマンスにおいて、いかに心身の余裕を保てるか。

今の状況でも、聴いた人にはたぶん「すごい演奏だった」と言われるだろうとは思うが、いい意味ですごいのか、別の意味ですごいのか。

せっかく集中練習で伸びたので、残る期間、そのあたりに目標をおいていければと思う。

それにつけても思い出すのは、7月にサントリーホールで聴いた、プラッソン指揮東京フィルの「幻想」。

決して、バカでかい音ではなかった。

そして、全曲を演奏してきて、最後にホールに響いた、曲締めの純正なCの和音!
あの美しい和音は、間髪入れずに拍手をすることを封じた。

あれはすごいと思った。

プロオケって、あれだけ演奏してきて、最後にああいう音を響かせることができるんだ、と思った。

Y先生が練習のたびに言われる、部分部分での和音の響き。

もちろん東京フィルのようにはいかないだろうが、一つでも二つでも、そういう意識をもって練習していけたらいいな。

浦安オケ、今、すごく難題に直面していると思う。

余裕のなさに負けず、あるいは、個々人の演奏上の快感に溺れることなく、集団としてのきっちりとしたパフォーマンスを練り上げていければ。