naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

裁判員にのしかかるあまりの重さ

昨1日(月)、秋葉原の耳かき店店員とその家族の殺人事件の判決。

裁判員裁判として初めて、死刑が求刑された事件の判決だった。

判決公判は、当初予定では午前に開廷されるところだったが、午後に延びた。
判決当日の午前にも評議が行われたかららしい。

十二分な時間をかけての評議だったことがうかがえる。

そして。

無期懲役。死刑回避。

裁判員の方々の会見内容が、新聞に載っていたが、本当に大変な判断だったことがうかがえる。

被害者遺族の心情を思うと、という部分。

公判過程での、被告の変化に着目した部分。

人の命を奪った被告の、その命を死刑によって奪うことの重さ。

前にも書いたが、これまでの公判記録を読み、被害者遺族の悲痛な訴えを聞けば、私なら死刑やむなし、との考えに簡単に傾きそうな気がする。

しかし、評議はそんな雑駁なものではなかっただろう。

被害者、その遺族の心情に心底共感しつつも、他の要素も勘案しながら、冷静な判断を下さなければならなかったのだと思う。

どの裁判員も、選ばれてから判決まで、裁判のことが頭から離れなかったに違いない。

今日の日本経済新聞朝刊の「春秋」欄には、「6人の裁判員が煩悶したことは想像に難くない」と書かれていた。
「煩悶」、まさにそういう状況で毎日を過ごされたのだろう。

「判決を出せば、もっとすっきりするかと思ったが、そうではなかった」と語った裁判員がおられた。
そうなのだろうな、と思う。

人が人を裁く。

たった一つの正解があるとは限らない状況で、おそらく、「死刑か、無期か」でずっと悩んできた裁判員の方々は、判決が出されたこれからは、「あれでよかったのか」という思いにとらわれ続けるのではないだろうか。

それは、死刑判決を出していても、今回のように無期懲役の判決を出していても、同じなのだろう。

閉廷に際して、被害者遺族の女性が、「納得できない、こんなのいやだ」と泣き叫んだという。

今回の判決公判の報道で、私が最も心を揺さぶられたのはこの点だ。

被害者遺族にしてみれば、「永山基準」なるものがどうであろうと、100%被害者感情しかない。
他の要素も勘案して冷静になれ、というのは酷な話だ。

「死刑しかありえない」という立場なのだ。
そして、望み通りに死刑となったにせよ、被害者は戻ってこないという割り切れなさを、これから先、ずっと抱えていかなければならない人たちなのだ。

それに対して、「裁判員としての責務」。

被害者遺族の心情に寄り添うだけではいけない立場。

これは埋まらない。

泣き叫んだ被害者遺族の、血を吐くような思いは、誰も否定できないだろう。

しかし一方でまた、その被害者遺族の悲痛な声を耳にした裁判員の方々は、どんな思いでそれを聞いただろうか、と考えるとやるせなさを感じる。

自分が下した判断に、100%の自信がある裁判員が果たして何人いたか。

そんな中、そういう声を聞いてしまった裁判員の中には、あるいは「罪の意識」のようなものを感じる人もいたかもしれない。

罪の意識、という表現は適切でないかもしれないが、おそらく、その被害者遺族の声は、これからも長く耳について離れないのではないだろうか。

被害者遺族の声を否定できれば楽だろう。それは違う、と。しかしそんなことは誰も言えない。罪悪感とまではいかなくとも、「応えてあげられなくて申し訳ない」という思いにはなるのではないか。

つまり、被害者遺族の叫びが真実であればあるほど、それは裁判員を追い詰め、苦しめることにならないのか。

もう一度書くが、この判決公判の報道で、私はこの点に最も心を揺さぶられた。

これまでの裁判で、「被害者の声は被告に届くのか」というような言い方がよくされたと思う。

裁判員裁判においては、裁く側の裁判員に、その声がどう届くのか、これは大きな問題だと痛感した。

裁判官は、職業として人を裁いているのだから、裁いた責任として、被害者の恨む声をぶつけられたり、場合によっては世論の批判にさらされてもやむを得ない立場だと思う。

プロとして、毅然とした判断を下し、いかなる批判も受ける。大変な重責だが、自らが選んだ職業としてそれをやっているのだから、ある意味では当然でもある。

しかし、裁判員は違う。「一般市民の感覚」をとりいれた、身近な司法制度、といううたい文句で、自ら望んだわけでもなく、そこに座ることになった人たちだ。

公判の全過程で、さまざまなやりとりを聞き、極刑を課すのかどうかについて、さんざん悩み、議論をし、その果ての無期懲役の判決を選択したにせよ、今後も色々な迷いや悩みはついてまわるかもしれない。
そこに追い打ちをかけるように、「納得できない」と泣き叫ぶ被害者遺族。

その声を聞いてなお、裁判員としての役目を終えた翌日から、何事もなかったかのように普段通りの生活に戻れるものだろうか。

制度が期待する「一般市民の感覚」を持った人であれば、おそらくそうはいかない。

誤解のないように書くが、私は、泣き叫んだ被害者遺族を否定したいわけではもちろんない。
判決が出た以上、それを淡々と受け止めろ、などと言うつもりは毛頭ない。

どんなに悔しいか、どんなに浮かばれぬ思いか、と思う。控訴も当然だ。

だからこそ、裁判員がそのナマの心情を聞かねばならないことのあまりの重さが、心に堪えるのだ。

何の罪もないのに殺された被害者、とよく表現される。今回の事件もそうだ。

裁判員だって同じではないだろうか。
国の新しい制度として、ある日呼び出されて選ばれただけの裁判員が、尋常でない精神的負担にさらされる。人によって負担感の大小はあるのだろうが、それにしても。

自分だったら耐えられるだろうか、と思う。

職業としての裁判官、そして、呼び出されて選ばれる裁判員、という立場の違いを考えた時に、穏当ではないかもしれないが、私は、自ら志願してなる自衛官と、昔の徴兵制を連想してしまった。

裁判員って、本当に必要なのか。

今回の裁判の、裁判員の方々の考えや気持ちをもっと知りたい。

そしてまた、今回の裁判が、「裁判員がいたからこそよかった」点は何かあったのか、それも知りたい。

最後に。

今日の日本経済新聞朝刊の記事の見出しは、「裁判員 死刑を回避」というものだった。

あたかも裁判員が死刑を回避したようなこの見出しは、大きな誤りではないだろうか。

裁判員裁判で評議が一致しない場合は、裁判官3人、裁判員6人の計9人での多数決になると聞く。

そして、今回のケース、裁判員全員が死刑を選択しても、死刑に同意する裁判官が最低1人いなければ、死刑判決にはならないそうだ。

評議の内容が非公開で、裁判員にも守秘義務がある以上、真相は永遠にわからない。

裁判員が死刑を回避した、とは誰にも断定できない。裁判員全員が死刑を選択したかもしれないのだ。

この見出しが問題だと思うのは、上に書いてきたような、裁判員へのプレッシャーをあおる方向につながりかねない表現だからだ。

判決を下したのはあくまで裁判所なのだ。記事本文ではそう書いてあるが。

評議の後に、裁判長が「判決についての責任は裁判官が負う」と言ってくれて、気が楽になった、という裁判員の話があった。

そうした認識が広まることが望まれると思う。

※関連の過去記事 「裁判員の大変さを思う~初めての死刑求刑」
    http://blogs.yahoo.co.jp/naokichivla/61723410.html