最近の訃報の中でも、特に重く受け止めた。
現役のアーティストではない。1975年に引退して、既に37年。
客観的に言えば、過去の人になっていたわけだが、それでも、重い。
客観的に言えば、過去の人になっていたわけだが、それでも、重い。
そう思うのは私だけではないようで、何人かのマイミクさんが、衝撃を受けたと書かれていた。
何故か。
それは、後にも先にも「ザ・ピーナッツ」のような存在がいなかったからだ。
これまで、女性デュオは他にも色々いた。双子の女性デュオも、ザ・ピーナッツだけではない。
空前にして絶後の存在。
楽曲のよさも。
そうした、幅広い曲想のどれも、ザ・ピーナッツはこなした。
「ウナ・セラ・ディ東京」は、典型的な歌謡曲のようでいて、しかし歌謡曲とは言えない、不思議なテイストを持った作品だったが、この曲などは、曲のよさがアーティストのよさを引き出し、逆に、このアーティストでこそ曲のよさを引き出せたと言える、稀有な例だと思う。
さらに言えば、ザ・ピーナッツという存在を、メディアとしてのテレビ、映画がこの上なく活かし、確固たるものにしたと思う。
テレビの台頭時代における、「シャボン玉ホリデー」、そして、映画「モスラ」。
ここにも、ザ・ピーナッツをめぐる大きな相乗効果があったと思う。
テレビの台頭時代における、「シャボン玉ホリデー」、そして、映画「モスラ」。
ここにも、ザ・ピーナッツをめぐる大きな相乗効果があったと思う。
いくつもの意味で、ザ・ピーナッツの存在は大きい。
先に書いた通り、現役のアーティストではない。
私の世代だからこそ感じることなのだろう。
私の世代だからこそ感じることなのだろう。
それを幸せだと思う。
芸能界、また渡辺プロの先輩であるザ・ピーナッツは、ジュリーにとっては憧れの存在であったと聞く。
テレビ局かどこかで、ザ・ピーナッツがトイレから出てくるところに遭遇し、「この人たちもトイレに入るんだ!」と思った、という話を、何かで読んだ記憶がある。
テレビ局かどこかで、ザ・ピーナッツがトイレから出てくるところに遭遇し、「この人たちもトイレに入るんだ!」と思った、という話を、何かで読んだ記憶がある。
ジュリーが、自分のライブ(確か野外での公演だったと思う)のステージに、新妻の伊藤エミを呼び入れ、ファンに紹介したシーンの写真を、芸能雑誌か何かで見た。
白い、ウェディングドレスのような服装の伊藤エミの美しさに、私も魅せられた記憶がある。
白い、ウェディングドレスのような服装の伊藤エミの美しさに、私も魅せられた記憶がある。
この結婚は残念な結末を迎える。しかし、その話は置こう。
けさのスポニチによれば、ずっと姉妹での生活をしていたらしい。
71歳。
彼女もそんな歳になっていたのか、また、亡くなるにはまだ早い、という両面の驚きがある。
彼女もそんな歳になっていたのか、また、亡くなるにはまだ早い、という両面の驚きがある。
妹に看取られての旅立ちは、幸せだったと言えるだろうか。そうだといいが。
手元に、もう20年以上前にリリースされたベスト盤がある(画像)。
明日は、これを聴いてみよう。