naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

父の俳句

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先日のエアコンと冷蔵庫の入れ替えに向けて、家の中をかたづけていたら、古い新聞の束が出てきた。

木更津の父の作った俳句が載っているものだ。

父は、木更津信用金庫(現千葉信用金庫)を定年後、関連会社で勤務し、さらに地元のシルバー人材センターで働いた。

完全リタイア後、それまで無趣味だった父は、俳句を始めた。

さほど社交的な人間ではないので、先生について習うとか、近隣の結社に入って研鑽を積むということはしなかった。

もっぱら、本やNHKの俳句番組を通じての独学だったようだ。

妻の母も俳句をたしなむ。
義母は、結社に参加して、しょっちゅう句会や吟行に出かけている。

父の場合は、それとはまったく対照的な句作スタイル。
自室のライティングデスクで、もっぱら自分の頭の中だけで作る方式だ。
よく「俺の俳句は机上の空論だ」と自嘲的に言っていたものだ。

(やや話はそれるが、歳をとっていく父を見ていて、「俳句をやって頭を使っているのだから、父が呆けることはないだろう」と思っていたものだ。
しかし、こうした、人と接することのない、引きこもりタイプの句作が原因なのかどうか、結局父は認知症を患ってしまい、今では施設に会いに行っても、私が自分の息子であることもわからない状況にある)

そんな細々とした句作の中で、父は朝日新聞の千葉地方版の「俳壇」にハガキで投句していた。
俳句欄と短歌欄が水曜日に隔週で掲載されており、俳句は所定の題にもとづいて、ハガキ1枚2句まで投句できる。

選者に採られた句は、「特選」と「佳作」に分けて掲載され、「特選」の3句は、選者からの評も併記される。

父の「机上の句」も、ときたま掲載されることがあった。

朝、出社前に新聞をひろげて、父の名前を見つけると、「今日は載ったね」と実家に電話をするのが常だった。

(父は他に、テレビの「NHK俳壇」にも投句していて、一度だけ番組でとりあげられたことがあった。この時は、喜びつつも、作った句が番組中の添削で直されたのがやや不満そうでもあった)

父の頭がまだしっかりしていた頃、「いずれその内、句集を作ってやるよ」と話を持ちかけたことがある。
父は照れくさそうに、しかしまんざらでもなさそうに笑っていたが、その後、何かと忙しさにとりまぎれて、実行することがないままに過ぎてしまい、父とは意味ある会話さえできない状況の今日に至る。

先日のかたづけの中で出てきた新聞の束は、父の句が載った「俳壇」のページで、最も古いものが1992年10月29日、最も新しいのが2006年5月10日だ。

認知症の兆候が気になって、通院させ始めたのが2004年の8月だったから、以後2年くらいは、脳が衰えつつある中、まだ句作は続け、かつ掲載されるだけの作品も作れていたのだ。

句集を作ってやれずにきた不肖の息子としての反省とともに、新聞の束を眺め、さしあたり、このブログ上に、父の句を残そうと考えた。

「父の俳句」カテゴリーを設置し、ここに、父の掲載句をご紹介していくことにする。