8月15日。
妹が姪を連れて木更津に帰ってきた。
木更津駅で出迎えて、父の施設へ。
最近の父は、我々が顔を出しても、この人たちは誰だろう、という反応。
今日も、声をかけても終始下を向いたままで、コミュニケーションはほとんどとれず。
仕方がない。
日頃お世話をして下さるスタッフの方が、「よく校歌を歌ってらっしゃいますね」、とおっしゃる。
その父の歌は、私もここの施設で前に聞いたことがある。自分の旧制中学の校歌だ。私や妹の高校の校歌でもある。
こうして、目の前のコミュニケーションもとれないほど衰えた脳の中で、70年も前の中学の校歌がどうして出てくるのだろう。
不思議なことだ。
施設を辞去して、実家へ向かう途中の和食の店で昼食。
姪は19歳になった。
思ってみれば、日本が終戦を迎えた昭和20年の今日、大正15年生まれの父は19歳だったのだ。
実家を妹にまかせ、千葉に戻ったら、施設から封書が届いていた。利用料の請求と一緒に、毎月、父の近況を報告する書類も入っている。
その中にこうあった。
「七夕の短冊に、「健康第一」と自書されました」。
「健康」は、父の大切な言葉。昔から、我々子供たちにも健康が第一だと繰り返し説き、実家を離れてからは、帰省した際に、二言目には、風邪薬や胃腸薬は足りているかと気にしていた。
年賀状にも決まって、健康で1年を過ごすように祈っている、と書いて来た。
年賀状にも決まって、健康で1年を過ごすように祈っている、と書いて来た。
今年の七夕、さっき見たような状況の父が、短冊に何か書けと言われて「健康第一」と書いた、と聞くと、これも先の校歌の話と同様、何とも不思議な気持ちになる。
脳の中の奥底には、きっと「健康が大事」という意識(父にとってのキーワード、キャッチコピー、ポリシー)が残っていて、今や脳内の記憶をほとんど呼び出せないようになっている中で、そのことだけは掬い採れたんだなあ・・・。
そんなふうであっても、どんなふうであっても、とにかく1日1日を生きていってくれたら。少しでも長生きしてくれたら。
そう思う。
終戦の日、父、86歳。