先月、入社同期の旅行の合間に、仙台のタワレコで、このCDを買った。
クーベリック=シカゴ響の一連の録音は、モノーラル。
他には「展覧会の絵」や「我が祖国」などがあって、私が大学の頃にも、1枚1,500円の廉価版でフォノグラムから出ていたと記憶するが、これまで聴いたことはなかった。
他には「展覧会の絵」や「我が祖国」などがあって、私が大学の頃にも、1枚1,500円の廉価版でフォノグラムから出ていたと記憶するが、これまで聴いたことはなかった。
今日、朝の通勤時に聴いたのだが、音が鮮明なことに驚いた。
「プラハ」は1953年、「新世界」は1951年の録音なのだが、実にきれいな音だ。
マーキュリーと言えば、「松ヤニが飛び散る音が聞こえる」と評される、シュタルケルの録音が有名で、音質には定評があると聞いていたが、モノーラル録音でこれほど鮮明だとは驚いた。
「新世界」の1951年と言えば、あのフルトヴェングラー=バイロイトの「第九」が収録された年。あの「第九」も、不備の感じられる録音だ。あれはまあ、ライブ録音だからという面もあるが、「運命」の方はスタジオ録音。
さらに連想したのは、ワルター=ウィーン・フィルの「大地の歌」。1952年のモノーラル録音だが、録音には定評あるデッカだけあって、音質は良好だ。デッカのモノ録音には、エーリッヒ・クライバーの「薔薇の騎士」など、他にも高音質の盤が多い。
うーん、そう考えると、フルトヴェングラーがEMIと組んでいたのは、後年のレコードファンのためには残念なことだったのか?
しかし、このマーキュリーの録音を聴いてしまうと、もしフルトヴェングラーが、マーキュリー、あるいはデッカと常時録音できる立場だったら、と思ってしまう。