福岡の訴訟を契機に、セクハラというものが、世間の話題になっていた頃だった。
この道での専門家の一人である、東京都庁の金子雅臣氏をお招きして、社内で講演会を開いたことがある。また、自分でも講師を務めたこともあった。
この道での専門家の一人である、東京都庁の金子雅臣氏をお招きして、社内で講演会を開いたことがある。また、自分でも講師を務めたこともあった。
セクハラについては、ある程度知識を持っているつもりだったが、この本を買った理由の一つは、タイトルだった。
いや、別に、今、職場恋愛の渦中にあるので、ぎょっとした(笑)、ってわけではありませんよ(部長ではあるけどね、一応)。
「恋愛」という言葉がひっかかったのだ。
セクハラと言えば、対価型、環境型。どちらにせよ、「職場の人間関係(上司と部下、同僚同士等)」の中で発生するもの、とのイメージがあり、「恋愛」というのは、セクハラとは少々ずれた位置関係にあるような気がしたのだった。
そんな問題意識もあって読んでみた。目次はこうなっている。
はじめに セクハラとは?
第1章 間違いだらけのセクハラ「常識」
第2章 セクハラの大半はグレーゾーン
第3章 恋愛がセクハラになるとき
第4章 女性はなぜはっきりとノーを言わないのか、
男性はなぜ女性のノーに気付かないのか
第5章 恋愛とセクハラの近くて遠い距離
第6章 オフィスにセクハラの種はつきまじ
第7章 周囲の方々、担当者へ
終 章 後で訴えられないために
第1章 間違いだらけのセクハラ「常識」
第2章 セクハラの大半はグレーゾーン
第3章 恋愛がセクハラになるとき
第4章 女性はなぜはっきりとノーを言わないのか、
男性はなぜ女性のノーに気付かないのか
第5章 恋愛とセクハラの近くて遠い距離
第6章 オフィスにセクハラの種はつきまじ
第7章 周囲の方々、担当者へ
終 章 後で訴えられないために
上記福岡訴訟にもかかわった経歴を持つ筆者は、本書でこのように論じている。
・非常に悪質で許されないセクハラは、そうそう起きるものではない。
・セクハラを「嫌がっている相手にする悪い行為」とだけとらえるのは、妥当でない。
・男性(ハラッサー)は、セクハラしていること、そう受け取られていることに気がつかないケースが多い。「合意のつきあいだと思っていた」「嫌がられているとは思わなかった」など。
・セクハラを「嫌がっている相手にする悪い行為」とだけとらえるのは、妥当でない。
・男性(ハラッサー)は、セクハラしていること、そう受け取られていることに気がつかないケースが多い。「合意のつきあいだと思っていた」「嫌がられているとは思わなかった」など。
男性側、あるいは周囲が、「つきあっている」「できてる」と思っていた男女の関係が、実はセクハラだったという事例、即ち、男性側から見れば「彼女も拒まなかった」「喜んでいたはず」と、合意の恋愛と思っていたのが、そうではなかったという事例は、多々ある、と筆者は説く。
本書のタイトルに当初違和感を感じたのだが、筆者の執筆コンセプトを理解して読み進める内、なるほど、職場恋愛もセクハラに転化しうるのだと納得する。
本書では、「合意の恋愛だったはず」と思っていた男性が、突如セクハラで訴えられ、「飼い犬に手を噛まれた」「冤罪」と怒る反面、当の女性はまったく違う認識でいる、といった事例が、縷々解説される。
うーん、そうなのか。
自分が、昔、労働組合時代に得ていた類型的なセクハラ知識に比べると、はるかにデリケートで深い内容。
セクハラ解説本としては、応用編、中上級編の内容である。
筆者自身を含む、女性のセクハラ専門家が、専門家であるにも拘わらず、セクハラ被害を受けた実例が紹介されているのは、とても衝撃だった。
そして、筆者は、セクハラは、女性から、仕事あるいは学業において、回復できない何かを失わせるものだ、と定義する。
関心のある方は、是非本書をお読みいただきたいが、非常に説得力のある本で、勉強になった。
職場恋愛云々はともかくとして、女性と一緒に働いている身として、わきまえるべきものはわきまえなければ、と、ちょっと身が引き締まる思いだった。
男性にも女性にもお薦めできる一冊。