naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

葬式考

今月は、出張やら外出が多い上に、葬儀参列もあったりして、非常に疲れている。

昨日も書いたが、会社関係の葬儀参列が4回。

今日午前、川崎津田山での先輩の告別式に参列して、会社の者と一緒に帰ったのだが、歩いていて、その者が、「葬式(に出る)って疲れるよね」と言った。

確かにそうだなあ、と思い、かつ何故葬儀参列は疲れるんだろう、と考えた。

その者も、私と同様、昨晩の別の通夜と、明けて午前の告別式。連日の葬儀参列だった。

ゆうべは東村山、今日は川崎。

よほど遠ければ、参列自体を諦める場合もあるが、今回は、足を運べる場所だったので、両方行った。

そういう、物理的な移動の疲れもあるかなと思いつつ、いや、違うぞ、と考えた。

会社関係の葬儀で、案内係とか受付とか香典係とかやることがよくある。何かの役目でお手伝いをしたなら、疲れるのはわかるが、昨日も今日も、単に参列しただけだ。仕事はしていない。

もっと根本的な理由があるはずだ、と思案して、一つの考えが浮かんだ。

つまり、葬儀という場の「負の空気」。

当たり前だが、会社関係の葬儀なので、こちらは親族ではない。

しかし、悲しみに包まれた親族の方々と接することで、そこでの「負」あるいは「マイナス」の空気がこちらにも伝わってくる。

疲れの根源は、たぶんそこにあるんじゃないだろうか。

関連して、もう一つ最近気になることがある。

告別式の場合、読経、焼香等の一連の式次第が終わり、さてこれから出棺というところで、「故人との最後のお別れ」がある。

棺に花を入れて、最後のお別れの言葉を口々にかける時間だ。

このくだり、少し前までは、親族のみで行うのが常だったと思うのだが、最近は、一般の参列者も立ち会うことが当たり前になっているようだ。

そのことが、あくまで会社関係の葬儀、という前提で言えば、個人的にはちょっとひっかかる。

私は親族ではない。

出棺はもちろんお見送りするつもりではいるが、その前の、故人とのお別れの時間というのは、基本的にはご親族の方だけにして差し上げるべきではないのか、と思うのだ。

出棺後、火葬場へ行って、お骨を拾うのが基本的に親族だけであるのと同様に。

しかし、最近は、ほぼ例外なく、その場にいる人は、斎場の係員の求めるままに、花を取って棺に入れる。

断るのもどうかと思うからだが、何か、他人の家に上がり込んでいるような、そんな申し訳なさを感じたりもするのだ。

確かに、親族でなくとも、故人と懇意にしていて、最後のお別れもしたい、という人はいるかもしれない。

であれば、せめて、希望者だけとしてもらえればと思う。

親族、あるいは親しかった人との時間を確保し、その後、全員で出棺をお見送りする、というふうにできれば、それが一番いいのではないだろうか。

引くべき一線というものがあるように思うのだ。