naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

白鵬の「審判批判」

1月場所で、史上最多の33回目の優勝を果たした白鵬が、千秋楽翌日の会見での「審判批判」発言で、物議をかもしている。

報じられている情報の限りで私見を。

まず、勝負判定自体

問題の稀勢の里戦は、今場所、勢戦、高安戦などと似た決まり方だった。
攻め込んで行った白鵬が、文句なしに相手を倒す、あるいは土俵から出すのではなく、前に落ちる形できわどい勝負、という点に共通点がある。

白鵬にしてみれば、自分の体が稀勢の里より多少は上になったままで落ちたので、きわどいにせよ、何とか勝った、という感覚だったかもしれない。
だから、取り直しが心外だったということなのだろう。

私も、テレビで観ていて、物言いがついた時には、物言いがつくこと自体に疑問はなかったものの、勝負の流れからすれば、軍配通りの判定か、と思っていた。

ただ、本件の報道で、改めて写真を見ると、問題は白鵬の右足の返りではないか、という気がしてきた。これは、私も見落としていた点だ。

近年、勝負判定においては、足が土俵から出た出ない、あるいは体が落ちるのが早いか遅いか、の部分に重点が置かれ、足が返ったかどうかについては、あまり重視されていないと感じている。
ただ、この一番について、それを厳格にあてはめれば、土俵際の体がどうあれ、白鵬稀勢の里にもたれかかって行った時点で、白鵬の負けと判断されてもおかしくはない。

ここでの問題は、2つ。

まず、白鵬本人が、そのルールをちゃんと知っていたかどうか。
「子供でもわかる」という発言が、土俵に落ちる時の、体のあるなしの問題だけで言っているなら、それは一面的な認識とも言える。

そして、物言い協議の中で、最終的な判定の決定において、その点がポイントになっていたかどうか。明確に記憶していないが、朝日山審判長の説明は、両者の落ちるのが同時と見て取り直しとしていたように思う。足の返りには言及されなかったのではなかったか。

勝負判定の当否については、協会として、何がポイントで決めたかを改めて明確にし、それを白鵬当人に説明することが必要ではないかと思う。

それとは別に、私が非常に残念なのは、白鵬が会見でふれた、大鵬45連勝でストップの戸田戦のことだ。

今でも、相撲史上に残る「世紀の大誤審」と言われるあの一番。
あれを契機に、ビデオ判定が導入されたのは、白鵬指摘の通りであり、もう半世紀近くも前のことを、よく白鵬が知っているものだとも思う。

但し、白鵬が日本の父と尊敬し、今回まさに自身がその人の記録を超えた、当の大鵬本人が、その一番の時に何と言ったか。

明らかな誤審であることが、新聞に載った写真で判明し、しかも、それが、当時は双葉山の69連勝に初めて迫りつつあった連勝記録(千代の富士の53連勝、白鵬の63連勝は後年のことであり、当時、双葉山の連勝記録を超えるのは、大鵬しかいない、と誰もが思っていた)の挫折だったことから、大鵬に対して、周囲の関係者が協会に抗議してはどうか、と進言したとされる。

しかし、それに対して、大鵬は「負けは負け。あんな相撲をとった自分が悪いのだ」と言ったと伝えられている。

白鵬は、そのことまで知っていて、あの発言に及んだのだろうか。この点については、私個人としては、非常に残念に思うのだ。

ここまでは、白鵬の発言に対して、批判的な角度からの論評である。

ただ、さらに続ければ、私としては、今回の白鵬発言の背景にある心情について考える時、一概に非難する気にはならない。

会見での発言には、こういうものもある。

「肌の色は関係ないんですよ。土俵に上がって、まげを結っているのは日本の魂。みんな同じ人間ですから」。

この発言には、非常に考えさせられるところがある。

まず思い出したのは、かつての小錦の「自分が外国人だから横綱になれなかった」という、いわゆる人種差別発言だった。

それと共通する心情を、この白鵬にして持っていたのか、と思った。

白鵬が、双葉山大鵬を尊敬し、相撲の歴史などについても、色々学んでいることはよく知られている。
日頃の発言を聞いていても、日本人力士、日本人の相撲ファンでもそこまでの知識、意識はなかなかないのでは、と思うことがある。

ただ、そのことと今回の発言を結びつけて改めて考えると、それは、モンゴルからはるばる遠い日本に来て、モンゴル相撲とは異なる日本古来の相撲の世界に身を投じた白鵬が、涙ぐましいまでに払ってきた努力という側面だったのか、という感じを受ける。

「よそ者」である自分が、日本の国技でやっていくために、「足らざるもの」への意識から、必死で学んできたということなのだろう。
その、足らざるものへの意識を、「コンプレックス」と評価するのは、おそらくは妥当ではない。
しかし、白鵬が、肌の色、日本の魂、と思わず口にしてしまった根底には、何か、外国人としての意識、日本人女性と結婚し、日本の相撲でこれだけ成功してなお、埋まらぬものを感じている心理がうかがえるように思う。

(劣等感、という意味でのコンプレックスでなく、文字通りの意味での、複合的な心理としてなら、コンプレックスという言葉を使ってもよいのかもしれない)

表彰式でのインタビューで、「目標がなくなった」という意味のことを言っていたが、翌日の会見でも、めざしてきたものを達成してしまった、エアポケットのような心境の中で、ついつい口が滑った、ということではなかったか、と私は思う。

一昨年の11月場所だったか、稀勢の里に敗れた時に、場内で万歳の声が起きたことで、白鵬自身は大きなショックを受けた、と報じられた。

そして、今場所、33回目の優勝がかかった一番の相手が、同じ稀勢の里。その相撲が、自分にとっては心外な取り直しの扱いになったことで、白鵬の心の中に、「これだけの実績をあげてきてなお、自分は日本の相撲ファンに受け入れられないのか」という思いがあったとしても、不思議ではない。

思えば、白鵬という力士は、長く一人横綱の立場で、野球賭博八百長問題などの不祥事に揺れる相撲界を先頭に立って支え続け、記録面でも、もうほとんどのものを塗り替えてきた。本人にも、当然その自負はあるはずだ。
ところが、その自負とは裏腹に、自分は、どこか手放しの賞賛を受けることができていない(朝青龍のようにヒール的なキャラクターとまでではないにせよ)、という意識があるのだろうと思う。
そのことを、「本当に悲しい思い」と表現したのではないか。

その思いが、ある一つの取組の勝負判定という、言ってみれば一つの事象に対して、端的に向かってしまい、ついつい不満を露わにする形になってしまった。そのように、私は理解する。

「ビデオ判定の方も、元お相撲さんでしょ。取り直しの重みも一番分かっているはずじゃないの。勝ったからよかったけど、もっと緊張感を持って、こんなのは二度とないようにやってほしい」。

この発言自体が、不穏当であることは確かだ。
理事長が不快感を示し、横綱審議委員会の委員長が非難のコメントを出したのは、やむを得ないかもしれない。

しかし、上に書いたように、協会としては、白鵬が問題にしている勝負判定について、ただ「審判に失礼」「黙って従え」と言うのでなく、何故取り直しとしたのか、その理由について、納得が得られるように説明するべきではないか。
また、白鵬角界にとっての功績を、国籍などとは離れたところで正当に評価することにおいては、まずは横綱審議委員会が先頭に立ってほしいと思う。

また、メディアの一部に、この会見にからめて、それ以外のことでの白鵬バッシングの論調が見える点にも、疑問がある。
指摘される個々の事項については、私も同感するものもあるが、この問題と一緒にして、白鵬という横綱の品格を疑問視するような短絡的な議論には賛成できない。
まして、「慢心」という言葉で簡単にくくって評価することも、どうなのかと思う。
(ただ、これは冒頭に記した通り、報じられている限りのこと、私が見聞きできている部分についてのことだ。メディアの取材者が、白鵬本人と接する中で、別のことを感じているならば、この記事での私見は留保する)

相撲ファンとして、今場所の白鵬の相撲を観た感想としては、この33回目の優勝は、優勝争いの展開からすると独走であったし、しかも久々の全勝ではあったにも拘わらず、白鵬自身にとっては、決してたやすいものではなかったのだろうと思う。
勢戦、高安戦のようなきわどい相撲が、稀勢の里戦以外にもあった点が、それを物語るし、その他の取組でも、どこかささくれだった感じの取り口が目立った。

白鵬本人の心中は察する由もないが、単独トップとなる「33回目」への意識がよほどあるのか、と思いながら観ていた。

そうした苦労の果てに、優勝を決める相撲がああいう形になったことが、前記の外国人力士としてのメンタリティとからまって、場所も終わった安堵の中で、口を滑らせた、ということだったのだろうと思う。

一連の発言のすべてを擁護するものではないが、私には、それよりも、彼が何故そう口走ったか、について考えさせられたのだ。

尚、「審判も元お相撲さんでしょ」については、個人的には、別の視点を持っている。

今回の白鵬の審判批判には、先般のアジア杯で、本田圭祐選手が審判批判発言をして罰金処分を受けたことを引き合いに出し、「スポーツにおいて審判は絶対であり、批判は言語道断」という意見も見られる。

しかし、大相撲の審判制度は、別の要素も持っている。
一つは、一義的な勝負判定をするのは行司であり、土俵下の審判は、その行司の判定に異義がある場合に登場する仕組みになっていること(物言い協議の際には、行司は判定に加われない)。
そして二つには、その土俵下の審判が、力士同様、部屋に所属する力士OBであること。審判に絶対の権威を求めるのなら、審判は完全な第三者であるべきだろう。土俵で相撲をとる力士の師匠などが、その勝負判定に関わることは、普通のスポーツではむしろありえない姿だ。

白鵬の発言は、元力士だから、現役力士の立場や気持ちを理解できるだろう、という趣旨と理解する。
しかし、もし、それとは正反対の、今述べた趣旨で相撲の審判に問題提起したのだったら、外国人力士ならではの独自の観点として、評価もできたのだが。