naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

A面・B面

ユニ響(津田沼ユニバーサル交響楽団)のGPに向かう道々、小田(和正)さんの「小田日和」を聴きながら、ふと思ったこと。

 

今は、CD(コンパクトディスク)だけど、昔は、黒いレコードでしたよね。

 

CDの一般発売が、1982年。もう33年前のことだから、今の若い人は、もちろん黒いレコードなんて、知らないんだろうな。

 

私の世代が、SPレコードを知らない、みたいなもんで。

 

ところで、この黒いレコード、表裏に溝が刻まれていた。

 

謡曲やポップスのシングルやアルバムでは、A面、B面という言い方をしていた。

 

シングルだと、B面は基本的に付録扱いで、買ってもほとんど聴かなかったものだが、リリースする側が、2曲とも力を入れて売り出す時に、「両A面」という言い方をしたものだ。

 

あるいは、もともとB面だったのに、注目されて売れた曲(例えば松田聖子の「ガラスの林檎」とか)などもあった。

 

また、アルバムでも、B面の何曲目に入っている曲、とか言ったり、「「アビイ・ロード」のB面はすごいよなあ」とか評したりしたものだ。

 

レコードに、A面があり、B面がある、というのは、きわめて物理的に基本の構造であり、要するに、器、パッケージの単なる形態上の属性に過ぎない。

 

しかし、当時はこれが、中に収められる音楽を制作する側にとっても、本質的な前提だった。

 

アビイ・ロード」を代表例として、アルバムを制作するすべてのアーティストにとって、レコードというものは、「A面をB面にひっくりかえす」ことが当然の前提だったわけだ。

 

A面からB面に移る時に、間があること。
場合によっては、A面だけ聴いて終わられることも、あるいはB面だけ聴かれることもありうること。

 

アーティストは、アルバムを、常に、A面、B面の2部構成で考えていたわけだ。

 

つまり、これは、当時のレコードの収録時間の制約から生じた問題だ。

 

クラシック音楽の場合、SPレコードがLPレコードになって、片面の収録時間は飛躍的に長くなった。
標準的な古典派、ロマン派のシンフォニー1曲なら、表裏1枚に収まるようになった。
しかし、それでも、例えば「エロイカ」や「第九」を1枚に収めようとすれば、楽章の途中で裏返さなければならないことが、まだあった。
マーラーなど、長いシンフォニーなら、2枚組になるのが普通だった。
それが、CD時代になり、マーラーの5番でも、1枚に収まり、かつ、裏返す必要がなくなったので、最初から最後まで、通して聴けるようになったのは、大きなカルチャーショックだった。

 

話は、ポップスに戻るが、アーティストが10曲ないしは12曲の楽曲でアルバムを制作しようとするなら、どうしてもA面、B面の2部構成にならざるを得なかった時代があった。

 

今は違う。

 

10曲、12曲で構成されるアルバムを、休みなくいっぺんに聴かせることが可能になった。

 

このことは、アルバム制作側にとって、大きな変革であったと思う。

 

聴く側にとっても同様だ。

 

私の世代の場合、多くの人がそうだと思うが、かつてA面、B面を持っていたアルバムが、CDのフォーマットで発売されて聴いた時に、全曲を休みなく聴けることの違和感は、小さいものではなかった。

 

アビイ・ロード」を最初から最後まで通して聴けるようになった、ということに、それは何か、本質的に違う、いや間違ったことではないか、とさえ言えるようにも思った。

 

当のビートルズでさえ、そのように聴かれることを想定していなかったはずだし。

 

今は、そうではない。多くのアーティストが、2部に分けてではなく、アルバムに収める楽曲を、通して聴かれることを前提にして、曲順を決めて配置しているはずだ。

 

このことは、クラシック音楽で、2枚組で聴くのが当たり前だったマーラーの5番が、1枚のCDで通して聴けるようになった、という、単なる物理的進歩とはまったく異なる、もっと音楽的な本質の変化を意味すると思う。

 

で、冒頭にふれた、「小田日和」である。

 

このアルバムには、10曲から構成されている。

 

その6曲目に収録されている「愛になる」。つまり、数のカウントで言うなら、10曲中、後半5曲のスタートにあたるのだが、ふと、「昔のアルバムだったら、B面の1曲目だな」と感じたのだ。

 

思ってみれば、昨年からのツアー、「本日小田日和」。

 

小田さんのライブは、通常2部構成になっている。休憩はないが、全体の中間に、ご当地紀行がはさまれるので、明らかにその後が、コンサート後半、という形になる。

 

今回のツアーのセットリストでは、ご当地紀行の後、後半のスタートに「愛になる」が置かれている。

 

ライブでの「愛になる」のポジションを併せて考えると、どうやら、私と同世代の小田さんに、昔のアルバム作りのイメージがあって、全曲を通して聴かれるにせよ、後半の1曲目にあたる部分に、この「愛になる」を配したのではないか、という気がしたのだった。

 

思ってみれば、前作の「どーも」も、そうして2部構成でとらえることもできそうな気がしてきた。

 

制作側、聴くこちらに、通ずる感覚があるということなのではないか。

 

私の勝手な思い込みだろうか。小田さん本人に聞いてみたいところだ。