naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

「1丁目の人」だった

昨18日(木)から、1泊で岐阜に出張。

 

昨夕の岐阜は、ものすごい雨で、避難関係のエリアメールまで受信した。どうなることかと思ったが、今日は雨も大したことがなく、無事帰京できた。

 

ところで、けさ、移動のタクシーの中で、「一丁目」と大きく書かれた横長の看板が目に入った。
 
↓ これです。この写真は、10月にまた岐阜に出張した時に撮影したもの。

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このへんは、「○○一丁目」なんだろうな、と思いながら、ふと、自分が今住んでいる住所も「○○一丁目」であることに思い至り、次の瞬間、これまでの人生での転居歴で、ほとんどの住所が「○○一丁目」だったことに気がついた。

 

生まれ育った実家は、木更津市中央1-3-27。もっとも、生まれた時には、旧町名表記だった。中央1丁目に改称されたのがいつだったか、定かでない。

 

1974年、大学に入学して、初めて親元を離れての小平市の下宿は、住所を正確に記憶していないのが残念だが、小平市学園西町。その後が思い出せないのだが、当時は、「○丁目○番○号」という住居表示ではなかったように思う。

 

1976年、3年生になる時に引っ越した、国立のアパートが、国立市中1-14-31だった。

 

そして1978年、卒業後、就職して、5年間を過ごした浦和の独身寮は、浦和市元町1-26-13だった。

 

惜しいのがその次。1983年から現場勤務となって、事務所の2階の宿舎に引っ越したが、この事務所は1丁目ではなかった。千葉市(今だと中央区)末広5-5-10。5丁目である。

 

そして、今、住んでいるマンションに、1985年に引っ越して今日に至るのだが、ここも1丁目。

 

ついでながら、1979年に父が新築して引っ越した実家も、木更津市○○1丁目である。私はここに住んだことがないが。

 

そんなことで、64年の人生の内、大部分が1丁目居住なのでした。

 

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       https://blogs.yahoo.co.jp/naokichivla/16698583.html