naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

8月12日

木更津帰省、またまた鰻の「瓜庄」へ


今日12日(水)は、朝、木更津の実家へ帰省。

「つばさ」を観終わった母と、お盆の御棚を準備。

母は、1月に亡くなった、姉の夫(私には伯父)の新盆見舞で、近くに住む叔父、叔母と、千葉に出かけた。

入れ替わりに、東京から妹が帰省。

母が不在でもあり、昼食は、父、妹と3人で外に出かけた。

「何が食べたい」と言えば、必ず「鰻」と言う父。幼い頃からの友人がやっていた(現在は物故、代替わりしている)、「瓜庄」(うりしょう)へ出かけた。

瓜庄は、たびたび記事にしているが、木更津で鰻と言えばここ、という名店だ。
文久3年創業だそうだ。西暦だと1863年。江戸時代の末期だ。

瓜庄には、先月の帰省時にも、父と2人で来ているが、今日は、妹も加わっての3人。

それにしても、父と妹と私の3人で外食をするというのは、一体いつ以来なんだろうか。
30年ぶり? 40年ぶり? それくらい久しく記憶にないことだ。

「盆工事」陣中見舞い


瓜庄から戻った後、妻が車で千葉からやってきた。

実家を辞去し、今度は、車で、会社の、木更津の事業所へ。

私の会社は、基本的には8日(土)から9連休なのだが、建設業の宿命で、この時期も工事をする場合がある。例えば、メーカーさんの工場構内の工事などは、その会社が休んでいる間に施工してくれ、というケースが珍しくない(ゴールデンウィークや年末年始もそうだ)。

ということで、多くの事業所で、「盆工事」の要員が、この暑い中、現場で頑張っている。

陣中見舞いに、少しだが、水などを届けた。この季節は、現場では熱中症が怖いので。
ちょうど所長がいてよかった。

木更津の事業所を出て、さらに船橋の事業所へ。ここにも、水などを届けた。

暑い暑い夏。無事故で乗り切ってほしい。

そう言えば、昨日の地震で、東名高速道路の牧之原SA付近が崩落した。あのニュース映像は、衝撃的だったが、中日本高速道路は、明日13日(木)には、応急工事を完了し、開通させる、と発表。

あの崩落状況を映像で観て、そんなこと、できるのか? という感じだが、このお盆の帰省ラッシュ時期、何が何でも、ということなのだろう。

道路舗装会社の静岡の事業所(それが私の会社かどうかは把握していないが)では、お盆休みどころではない状況にあると思う。
休みに入っていた人たちが、自宅や帰省先から呼び戻され、施工の準備にかかっているだろう。
落部分を盛り土で復旧したら、最終工程が舗装となる。
前工程の進み具合次第だが、今夜、夜間施工になるかもしれない。

舗装会社は待機だ。
関係する人たちにとって、09年の8月12日は、一生忘れられないだろう。

日航機事故から24年


御巣鷹日航ジャンボ機が墜落して、今日で24年。

もうそんなに経つのか、と思う。

あの日のことは本当に忘れられない。

私は、千葉の現場事務所に勤務していた。労働組合では、支部の書記長を務めていた。
前年9月の改選で書記長になり、周囲は、2年、3年は在任すると思っていたし、自分自身もそう思っていた。

ところが、この85年(昭和60年)、秋に結婚することが決まり、今から思えば本当にわがままな話だが、要するに、新婚生活をエンジョイしたいあまり、組合活動に時間をとられるのが嫌になった。

折しも、9月には改選時期が来る。ということで、私は、「次の改選で書記長を下りたい」と、申し出た。

1年で下りる、というのは、異例の話でもあるし、周囲からすれば、突然のことだ。

あの85年8月12日、私は、千葉の事務所から品川の支店(今いる支店)に行き、支部の委員長、副委員長たちと、この件についての話し合いを持った。

どうしても下りたいとする私。それはないだろう、という委員長たち。

結局その日は、話が決裂し、物別れとなった。

そして、品川から帰ってきて、夜、「日航機がレーダーから消えた」という報道に接したのだった。
以後、深夜まで、テレビから離れられなかった。

もちろん、一般の方と同様、坂本九さんの死亡の衝撃、落合由美さん、川上慶子さんの生存の驚きなども、忘れられない。
しかし、私にとっては、あの8月12日を思い出す時には、昼間の組合人事の押し問答が切り離せない。

(尚、結局、その後の話し合いで、書記長職には、留任することになった。2年の在任だった。その後、さらに支部の委員長や、本部での専従も務めることになるが、あの時に、書記長を1年で辞めていたら、その後の組合での経歴はどうなっていただろうか)