naokichiオムニバス

66歳会社員。ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

若書きアーカイブ~クライバー=バイエルン国立管来日公演感想(1986年5月、30歳)<3>

 そこにこそ、またと聴けまい、という所以があるわけだが、そこで、さっきの話に戻ると、こうした「踏み外した」演奏の凄さ・面白さにふれてしまうと、正統的な、とか、立派な、とか、きちんとした、とかいう演奏の価値について改めて考えざるをえなくなるのである。例えば、シュトラウスの音楽にかけては本場ものとの定評があり、今年1月にナマでも聴いた、大家ボスコフスキー老あたりを思い浮かべた場合、大変申し訳ない言い方になってしまうのだが、比較するのも気の毒にさえなってくるのだ。
 クライバーも、この2曲では、足を組み加減にしたり、手すりに全く寄りかかったり、と誠に粋で絶妙な指揮ぶり。ともかく、この2曲、完全に脱帽。いや、まいった、おそれいりました、としかいいようのない超名演だった。「雷鳴」など、もっともっと続いてほしい、いつまでもこの音楽を聴いていたいのに、と、曲の短さ、あっけなさに、淋しささえ漂うような、そんなアンコールのひとときだった。
 指揮者のことばかり書いて、オケのことが後回しになった。もとより、はっきり言って、この公演、オケはどこでもいいのである。そもそも、外来オケを聴きに行く場合は、オケがどこであるかもさることながら、指揮者が誰であるかに、興味の重点が行きがちなものだが、この公演の場合はそれが特に極端で、ともかくクライバーの素オケのコンサートが初めて聴ける、というのが要件なのである。更に言えば曲目だって、クライバーが振る以上、何だっていいのである。おそらく、会場を埋めつくした聴衆の大部分が、そう考えていた筈だ。
 少なくとも私は、ウィーン・フィルボストン交響楽団の来日公演を聴く時のように、世界のトップレベルにあるオケの技量にふれたい、という姿勢での臨み方はしていない。加えて、クライバーがこのオケでライヴレコーディングしたベートーヴェンの4番を事前に聴いた時に、「レコ芸」で吉田氏・小石氏の評が、等しくオケの実力を称賛していたのとは反対に、そんなに上手なオケ、とは思えない、アンサンブルもずいぶん粗いのではないか、と感じていた経緯があり、尚のこと、オケの力量に対する期待は希薄だった。
 ところが、そこが、いかにライヴ盤とはいえレコードと、実演の違いなのだろうが、なかなかどうして、それどころか、非常に立派なオケだと思った。
 まずいいのは、一所懸命に弾くところ。それから、クライバーと最も日常的につきあっているオケだから当然なのだが、クライバーの指揮をよく現実の音としていたこと。中でも、金管と打楽器が、音楽にメリハリをつける上で、優れた力を発揮していた。
 しかし、何と言っても、特筆さるべきは、よくまあクライバーのテンポについていった、ということだ。単にあの速いテンポについていった(前記のベートーヴェン7番のフィナーレや「こうもり」の終結)だけでも凄いが、それにも増して、あのテンポの緩急によく対応できたものだとつくづく感心する。テンポの自在さが最も極立った「こうもり」など正にオケの名人芸というしかない出来だった。気心の知れた間柄の指揮者とオケでなければ、やはりなかなかこうはいかないだろう。
 勿論、ブラームスのフィナーレで、管が3度で上下するパッセージと弦のピツィカートがずれたりしたのを初めとして、主にクライバーのとった速いテンポから来る、アンサンブル上の不備は少なくなかったのだが、どういうものか、それは全く気にならなかった。演奏の持つ、それ以上に大きい力、先に書いた音楽の流れに圧倒されて、そういう技術上のミスはどうでもいい、という気持ちであった。真の名演奏とは、そういうものかもしれない。
 本ベルが鳴って、オケのメンバーが登場すると、盛大な拍手か浴びせられ、最初から異例の盛り上がりを見せていたが、演奏がそうだから当然とはいえ、演奏後の会場の騒ぎは凄いものだった。
 「熱狂」「万雷の拍手」とはこういうのを言うのだ、と思った。メインの曲やアンコールの曲が曲だから、いやが上にも聴衆を乗せてしまった所もあるが、オケのメンバーが退場した後も拍手は一向に鳴りやまず、無人のステージに、クライバー一人が何度も何度も呼び返された。クラシックのコンサートでは珍しい、スタンディング・オヴェーションとなった。ステージには若い人たちが殺到し、クライバーに握手を求め、クライバーもこれに応じたが、このような光景を見るのは、前記のベームウィーン・フィルの時以来である。両者に共通なのは、演奏そのものの感銘も勿論だが、それに加えて、ベームの場合は高齢、クライバーの場合はこの人特有の事情による、いずれもこの先そうそう何度も聴けるものではない、という貴重さの認識であろうと思う。
 冒頭に書いたように、2日間のどの曲についても、私にとっては、かねてよりレコードで充分「クライバーは凄い」と実感してきた筈の、そのまた遙かに上をいく感銘を与えられた。演奏自体を比較して、レコードの録音時点よりも、今回の公演の方が出来がよかったとか、クライバー自身が成長した、とかいうふうには、私には速断できない。やはり、レコードと実演の違いにその要因を求める方が、妥当だろうと思う。私自身がこの問題について考える時、まず出てくる、音響空間の面での違いは、無論あるわけだが、それだけでは説明しきれないような気がする。よく宇野功芳氏がムラヴィンスキーや鄭京和あたりのレコードを批評する際に「本当の芸術はマイクには入り切れない、実演はこんなものではない」云々と書いているのを読んで、宇野さんの言うことだし、別にそう賛成する気にもなっていなかったが、こういう演奏を聴くと、そういうこともあるかもしれないな、とも思ったりするのである。要するに、実演の場に身を置くという行為は、レコード(ライヴ盤も含め)を聴くことに比べ、その「情報量」に本質的な差があるということだ。
 いずれにせよ、とにかく得難い体験だった。コンサートでこれだけエキサイティングだったのは、私にとっては、二期会の「マイスタージンガー」や、オフコースの厚生年金会館でのコンサートなど、いくつかあるが、勿論今回の2回の公演も長く忘れられない一つになるだろう。
 コンサート前後、クライバーを特集した雑誌や、新聞のコンサート評などを読んだ。聴いてからつくづく思ったことは、上に書いたことの繰返しになるが、1回のコンサートの体験は、活字の情報を100回読むのにも勝るということだ。いかにすばらしい演奏だったかについて、専門の評論家の先生が上手に書いたコンサート評を、暗記するほどに繰り返し読んだところで、わかるものには限界がある(これはレコードでも同じである)。正に百聞は一見であって、私が1回だけでもその場にいて、自分自身の拙ない耳で、演奏の白熱を聴き、会場の熱狂を体験することが、どれだけ大切か、ということを痛感させられる。
 その意味で、今回こうしてクライバーが来日してくれた(キャンセルもせずに!)というチャンスに恵まれたことについては、当のクライバー本人には勿論、チケットを買えた幸運にも感謝せずにはいられない。近く予定されているという、テレビ・FMのオン・エアが、誠に楽しみである。