naokichiオムニバス

69歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

若書きアーカイブ~クライバー=バイエルン国立管来日公演感想(1986年5月、30歳)<2>

 クライバー自身に、この流れを本能的・直感的に掴み取る、天与の才があるということなのだろうが、そこから生まれる演奏も、従って、計算・分析・設計といった言葉とはおよそ縁遠い、本能的・生理的・野性的なものとなる。だから、表現されるものの外形自体については、例えばテンポが速過ぎてせわしないとか、テンポが動き過ぎて作為的だとかいった拒否反応を示す人も、或いはいるかもしれないが、それはあくまで好みの問題なのであって、そうした次元での好き嫌いを別にして、クライバーの作り出す音楽が、彼自身の内面の只ならぬ奥深いところから出てきていることや、音楽の流れの掴み方がおよそ類例のないほど深くかつ鋭いことは、誰しも認めざるをえないだろう。それは、殆ど「狂気」と紙一重まで近付いたところで発せられているのであり、我々凡人がこういうものに接した場合には、必然的に恐怖さえ感じずにおれないものである。要するにその説得力は絶大だということだ。
 聴きながらこうしたことを考えていて気がついたのは、これはフルトヴェングラーについて故大木正興氏あたりが論じていたのと同じだということだ。長いことクライバーのレコードを聴いてきた私としては、こうして実演を聴くまでそんなことは思ってもみなかった、というより、むしろ両者を、指揮者のタイプとしては対照的な位置付けでとらえていたところさえある。実際、クライバーの新譜レコードが出れば飛びつく私が、フルトヴェングラーのレコードを日常的に聴くことがなくなって久しい。しかし、こうしてナマの演奏にふれ、レコードでは見られなかったテンポの動きに接したことも含めて、クライバーの音楽に、フルトヴェングラーのそれとの親近性を論ずることができるような気がしたのである。
 知性・計算・設計・技巧・楷書などといったものと、本能的・野性的・才気・ひらめき・草書といったものの、どちらが魅力的で、面白くて、怖くて、価値があるか(極端に言えば天才型対努力型の比較)、という命題については、だいぶ以前から、例えば長嶋茂雄王貞治小田和正鈴木康博桑田佳祐さだまさし(あるいはここでは小田和正)、松田聖子(あるいは中森明菜)と岩崎宏美前川清布施明、森進一と五木ひろしとかになぞらえては、よく考えてきたところだが、クライバーに関しても、ここまでに書いてきた、指揮姿と音楽そのもの、いずれについても、たとえばアバドあたりと対置することができるだろう。
 もう一つ、演奏について書いておかねばならないのは、オペラ的気分の横溢である。先に書いた、音楽の流れを強く打ち出す演奏というのは、言い換えれば、音楽の中の劇性をえぐりだすことでもあるのだから、同じことの表現を変えているだけで、殊更に別扱いして書くべきことではないのかもしれないが、私には、指揮者に対する先入観、オペラのオケだという先入観があるせいなのか、単に劇的な面を強調した音楽、というのと別の意味で、どの曲にも、オペラ的な気分が濃厚に漂っているように感じられてならなかったのである。
 ベートーヴェンの2曲には、そうした感じはさすがに比較的希薄ではあったが、絶対音楽の代表のようなブラームスの2番では、全曲を通じての楽想の変化を聴きながら、まるでオペラのようだと思ったものだった。
 また、モーツァルトの33番についても、同じことを感じた。プログラムが変更されて、この曲が取り上げられることを知ってから、雑誌を調べたところ、クライバーがレパートリーにしているモーツァルトのシンフォニーが、これ1曲しかないことがわかった。後期の名作・大作がいくらもあるのをさしおいて、この曲しかやらない、というのがいかにもクライバーらしい、と思ったが、なじみのない曲故、予習のために数回レコードを聴いていて、どうも私には、この曲は、モーツァルトとしてはやや霊感に乏しいのではないか、と感じられてならず、何故クライバーは好んでレパートリーにしているのだろう、という疑問が、再びわいてきていた。
 今回の演奏を聴いて、その疑問はある程度解決した。私見では、この曲は、この時代の古典的交響曲の作曲法としては、ずいぶん変なところがある。展開部に入ってから新しい主題が出てくるなどはその一例だし、全体的に散文的というか、散漫なのである。そのへんが事前に聴いていて、霊感に乏しい云々という感想につながっていたのだが、実際演奏を聴いてみると、楽想が散文的に移り変わっていくのが、一種オペラ的なように感じられたのである。モーツァルトが曲自体を何かそういう前提或いは事情で書いたのか、不勉強でよくわからないが、この曲の持つそういう要素が、クライバーの気に入っているところなのかもしれない。ともかく、このモーツァルトの中期の小さなシンフォニーを、クライバーは、あたかもオペラのように、劇的だが、軽やかに演奏した。やはりクライバーはオペラ指揮者なのだ。
 言うまでもなく、基本になるテンポは概して普通より速めである。速めのテンポは、先にふれた劇性の彫琢に、さらに効果を付加する。ブラームスベートーヴェンの各々のフィナーレなど、先行する楽章を受けて全曲を収斂するために、ここで強烈に締め上げる、といった位置付けで、「白熱」とか「凄絶」とはこういう演奏を形容するのにこそふさわしい言葉だ、としか言えないような、凄まじいまでの盛り上がりを見せることになる。それは、正に「目もくらむような」「息もつかせぬような」という表現がぴったりの、誠にエキサイティングなもので、私などは、正直な所、これらの曲締めでは、あまりの急速なテンポ、一気のたたみかけについていけず、あれよあれよという間に、よくわからん内に終わってしまった気がする。もっと腰を据えて落ち着いて聴いて、後々まで記憶に留めておきたかったのだが、演奏自体がそれを許さないものだったとも言えるかもしれない。
 他にも、演奏の途中で、思わぬ声部が浮き出るのにハッとしながらも、すぐまた耳をそらせぬ新しい音楽が続くので、一つ一つ心に留めておけぬまま進んで、結局覚えていられなかったりする所が多かった。真の名演奏とは、或いはそういうものなのかもしれない。聴く耳側の不足も勿論あるだろうが。
 曲毎に少々ふれておくと、まず、ウェーバーは、さすがにオペラ的気分満点の演奏。序曲が終わっただけなのに、ブラヴォーは飛ぶわ、拍手は鳴りやまないわのえらい盛り上がりで、驚いた。
 モーツァルトは、先に書いたように、歌のないオペラ。編成の小ささもあるが、とにかく羽のように軽やかだった。フィナーレは、予想通り速いテンポで小股の切れ上がった、クライバーの面目躍如たる演奏だった。
 ブラームスは、聴き慣れたこの曲がこういうふうに演奏されるのを初めて聴いた、という印象。全体に、脂っこさのない、引き締まった痩身のブラームス。オペラのように聴こえた、と先に書いたのに関連するが、ブラームスらしからず、非常に色彩の豊富な演奏だったと感じた。フィナーレの曲締めは、レコードで聴いてある程度予想のついたベートーヴェンと違い、初めて聴いたわけだが、私がかつてレコード・実演で聴いたどの演奏も上回る、引き締まった、沸きたつような一気の終結だった。
 2日目のベートーヴェンは、従来からレコードでなじみの曲だけに、おおよそその延長でとらえることができる演奏だった。75年のベームウィーン・フィルの同じプログラムの時のように、クライバーも、この2曲を対照的に表現しようとしたように思われる(編成は4番の方も木管だけは倍管だったが)。4番は比較的こじんまりと軽量級に(とはいっても、クライバーのことだから、並のおとなしい演奏では勿論なかったが)、7番は目いっぱいスケール大きく。先にもふれたが、フィナーレのコーダで、それでなくとも速いテンポだったのが、突然更に一段スピードを上げたのには驚き、おろおろしている内に曲が終わってしまった。
 2曲とも、緩徐楽章が秀逸。クライバーのイメージ通りの劇的・威勢のよさで埋めつくされた、前後の楽章の中にあって、決して息抜きや中休みの場に終わらないだけのものだった。一言で言うと「涼しい」演奏。手ざわりはひんやりとして、色にたとえれば、水色で、静かに流れていくが、決して弱々しくも、淡くもなく、凛とした流れである。そして、抒情的なものに欠けているわけではない。抒情と厳しさが見事に両立している。このへんが、クライバーの懐の深さだろう。4番のレコードでの第2楽章の演奏を評して「クライバーは感傷的な味わいだけを一掃した」と「レコ芸」に書いたのは、吉田秀和氏だが、こうして実演に接してみて、誠に至言だと思った。
 尚、今回の公演でのオケの弦の配置は、チェロを中に入れたオーソドックスなもの。ベートーヴェンの7番では、セカンド・ヴァイオリンを右に持ってくるかと思ったが、そうはしなかった。
 しかし、2日間を通じて、最高の名演はといえば、文句なしにアンコールで演奏された、J.シュトラウスの2曲であっただろう。曲目は両日とも共通で、クライバーが曲名を日本語でインフォメーションした「こうもり」序曲と、ポルカ「雷鳴と電光」。私は、これに先立つ上野での公演で「こうもり」をやったことは新聞の評で読んでいたし、初日の休憩時に打楽器やチューブラ・ベルが用意されたので予想はついたが、まさか「雷鳴」までやるとは思っていなかったから、驚喜した。クライバーとしては、「こうもり」上演の際の目玉である「雷鳴」を、序曲とセットにして考えていたようで、2曲の演奏にはあまり間を置かなかった。
 そうしたことはともかく、この2曲の素晴しかったこと、愉しかったこと、気持ちのよかったこと。こちらもそれまでブラームスベートーヴェンの《純音楽》を緊張して聴いていたのと一転して、アンコールはおまけだし、曲も曲、リラックスしてとことん楽しませてもらった。これは、はっきりオペラ小屋のピットで日常的に弾き慣れている強味だろう、オケも乗りに乗った劇場的気分満点の演奏。この上なく魅力的な絶妙の演奏で、今迄は勿論、今後も、このコンビ以外の演奏で、これ以上の「こうもり」「雷鳴」を聴けることは到底考えられないと思った。
 「こうもり」序曲は、聴いていて、まさしくこれからオペラが始まるのだ、という気分で胸がわくわく高鳴ってくるのを抑えられない演奏で、「フライシュッツ」もそうだったが、ここで幕が上がって第1幕が始まらないのが、本当に残念でならなかった。また、「雷鳴」は、あくまでオペラの中で使われるものとしての演奏。そのテンポといい、ダイナミズムといい、単なるウィンナ・ポルカの範囲を完全に逸脱していた。

(まだ続きます)