25日(火)、午前。
仕事で訪問した弁護士事務所での打合せの直前。携帯電話に着信記録と留守電が入っているのに気づいた。
市原に住む従兄からだった。この従兄から電話がかかることは、めったにない。
急ぎ留守電を再生すると、千葉市内に住む伯母(母の姉)の訃報だった。
伯母とは、8月に会っている。伯母の自宅に迎えに行き、近くのレストランで昼食をとった。
その直前、私と妻が訪れた福岡の柳川の話題となったが、伯母は、国内海外とあちこちに旅行したが、行きたくてとうとう行けずにいる土地の一つが、柳川だと言っていた。
伯母は、歩くのがずいぶんと不自由になり、以前に比べるとだいぶ痩せた印象だった。
既に88歳。自分の両親や姉が死んだ歳を超え、一族の中では未踏の長寿の域に入っていたのだったが、訃報を聞き、とうとう、と思った。
その日は、会社を出てから妻と弔問に行った。
伯母は子供がなく、姉の娘(私には従姉)と養子縁組をして、従姉夫婦、孫と暮らしていた。
伯母は、自室のベッドに横たわっていたが、いつものように微笑みをたたえた顔は、今にも目を開けて起き上がりそうに思えた。
聞いたところでは、電灯やテレビが点いたまま、自室の座椅子に座った状態で亡くなっていたのだそうだ。
2009年、7年前に私の母が亡くなった時と、まったく同じだった。母も、自室の座椅子に座っていての突然の死だった。
伯母は、近年、会うたびに、老いることへの嘆きを口にしていた。足が不自由になり、家族に負担をかけることを申し訳ないと語っていた。そして、私の母が、ある日突然、まさに忽然と他界したことについて、当時は驚きもし、悲しみもしたが、死に方としては、妹にあやかりたい、と話していた。
そんな伯母にしてみれば、妹と同じ亡くなり方は、本望であったかもしれない。苦しんだ様子はなかったとの話が何よりに思われた。
伯母の命日は、10月24日。母の命日は、10月3日。同じ10月に、3週間違いでの他界である。
最後にもらったハガキは、10月2日に書かれたものだった。翌日の、母の命日に向けて、写経をしてくれたと書いてあった。また、母の死について、こういうことも。
「考えてみると、今の私にとっては理想的な旅立ちだったとつくづく思います。人の手を借りていつまでぐずぐず、よりどんなによい形であったことか、などと考えてしまいます」。
あまりに達筆で、時に判読に苦しむ伯母の字のハガキが届くことは、もう決してないのだ、と思うと、そのことだけでも、とても寂しさに襲われる。
しかし、88歳の天寿を全うした伯母の姿からは、暖かい満足感のようなものが伝わってきて、深い悲しみよりは、感謝の気持ちの方が大きかった。