naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

印象と記憶

「あ、運動会の時に転んだおばさんだ」

けさ、オケ練に出かける時、マンションの玄関のところで、同じ棟に住んでいる女性が自転車に乗って走って行くのを見て、そう思った。

それは、もう20年近く前のことだ。
平成の初め、マンションの管理組合の役員をしていた時に、毎年恒例の町内の運動会があり、立場上、運営の手伝いをすることになった。
近所の中学校の校庭で、行われた運動会。
確か、リレーの種目の時だった。けさ会った、その女性が出場して、トラックを走ってきたのだが、私の目の前、コーナーを曲がるところで、派手に転んだのだ。

私にとっては、それがすごく印象に残った。

歳の頃は、私と同じか、少し下かというその女性が、同じ棟に住んでいることがその後わかった。
名前はわからないし、もちろん話をしたこともない。
以後、時々、エレベーターとか玄関とかで行き会う機会があるのだが、そのたびに、私の頭の中では、

「あ、運動会の時に転んだおばさんだ」

という条件反射が起きる。

私の棟には182世帯が入居している。
別に、その女性とだけ、頻繁に出会っているわけではあるまい。
他の居住者とも、同じようにすれちがったりしているはずだ。
ただ、刷り込まれた印象と記憶から、何か、気がつけばその女性とばかり行き会っているような気がするのだ。
そして、話したこともないその女性=「運動会で転んだおばさん」という結びつけを、おそらく私だけがしている。
不思議なものだ。

実は、オケ練に行くために駅に行ったら、自転車で走り去ったその女性が、上り電車のホームにいた。
それも、私がいつも乗る車両に一緒に乗って、私の向かい側に腰を下ろした。

私のことをおそらく知らないであろう、この人は、向かいに座っているおじさんが、自分のことをもう20年近くも「運動会で転んだおばさん」と思っていることを知らないだろうな(当たり前だ)、と思いながら、電車に揺られていた。



長くなるがもう一つ。

一昨年の秋、出張先の長崎でのパーティーの席上、突然、上司である役員から命じられて、ピアノを弾くことになった。
そして、それがきっかけで、2ヶ月ほど後、同じ長崎での別のパーティーで、今度は女性歌手の伴奏をピアノでやることになった。

私がピアノを習っていたのは、幼稚園から中学3年までの10年間。

以後も、趣味で弾き続けていたが、まあまともに指が動いていたのは、大学を卒業したあたりまでだ。
今では、全然だめ。左手などは絶望的な状況だ(これがヴィオラだと、左手はちゃんと(でもないが)動く。面白いものだ)。

30年前、今の会社に入った直後、あるいきさつから、前記の役員(当時はまだ課長)の自宅で、ピアノを弾く機会があった。
このことで、その課長の頭に「こいつはピアノが弾ける」ということがインプットされたのだと思う。

それが、30年近くの間、彼の頭にはあって、前記、最初のパーティーの席上、さんざん酔っぱらった中で、ふと思い出して、「おい、お前、ピアノ弾け」という話になったのだ。
困った。ピアノなんて、かれこれ20年くらいはまともにさわっていないのだ。
その時は、こっちも酔っぱらっていたから、適当に鍵盤をたたいて終わった。
2ヶ月後の別のパーティーの歌伴奏は、予めの命令があったから、自分なりに猛練習して臨んだ。

このことで思ったのは、前記の運動会のおばさんの話と同じで、相当昔のことであっても、人間は、印象に焼き付けられたことを、ずっと覚えているということ。

そして、もう一つは、ものごとを正確に理解し、認識するというのは、大変難しいということだ。

私の場合、自分では、ピアノが一応弾けたのは、会社に入った頃までだと思っている。
しかし、前記の役員は、おそらく今後も含めて、「naokichiはピアノが弾ける男だ」という認識を変えないだろうと思う。
また、そのパーティーの場にいたのは、会社の者であったり、社外のお客さんであったりしたのだが、その人たちにとっても、そうなのだと思う。
実際、今いる支店の上司(支店長)は、最初のパーティーの場に居合わせたのだが、私がピアノを弾くことを知らなかった驚きもあってか、今も、時々、誰かに、私のことを指して「こいつはピアノがうまいんだよ」と言うことがある。
パーティーのお客さんだった人と後日会った時に、「いやあ、あなたがピアノが弾けるとは」と直接言われたこともある。

私自身としては、全然違う話で、ピアノなんかは、あの一昨年のあの時期、一応練習して弾いたりしたが、要するに後にも先にもその時だけの話。
「うまい」どころの話ではない。もはや小学生以下の技術しかないのだ。
今の私にとっては、ピアノはそういうポジションだ。

楽器のことを言わせてもらえるなら、現役なのは、もちろんヴィオラ。毎週浦安まで通って弾いていて、時には他のオケにもお邪魔している。
自慢させてもらえるなら、ピアノなんかでなく、こっちを自慢したいところだ。
私の今の生活の中核は、ヴィオラにこそあるのだ、ということを、理解してもらいたい、とも思う。

しかし、会社の中で例えばそういう話をいくらしたところで、「naokichiはピアノ」という認識は修正されないはずだ。

それは、要するに、「見たか、見ていないか」の違いに尽きる(あ、あと、「ヴィオラ」ってのもよくないかも。メジャーじゃないしね)。

私にとって、たった1回、2回、数年ぶり、いや十数年ぶりに弾いただけのピアノ。
しかし、それを目の前で見た、その場で聴いた人にとっては、私のイメージを決定づけてしまう出来事だったということだ。

これをくつがえして、私のアマチュア音楽活動を正確に理解してもらおうと思ったら、オケの演奏会に招待して見てもらわなければならない。
そこまではしないとしても、例えば、同様のパーティーで、弦楽四重奏くらい演奏しなければならない。

そういうことなのだろうと思う。



「印象」と「記憶」。

面白いものだと思うが、あまりに強い印象が、正確な理解、認識を妨げることもある。
気をつけないといけない場合もあると思うのだ。