父が他界して間もなく1ヶ月になる。この件について、少しだけ書いておきたい。
その母が、突然倒れて亡くなったのが、2009年10月のことだった。79歳だった。
父の生活をどうするか、介護保険のケアマネージャーさんにご相談し、市内の施設に暫定的に受け入れていただくことになった。
直後、市内外の5施設に入所の申込をして、空きを待った。
特養は、施設内で医療が提供される点、何かの時には大変心強い。
加えて、この特養には、実家の近くで内科医を開業するH先生が提携医として出入りしておられた。
先代の院長である、H先生の父上は、父の親しい友人でもあり、古くから私も含めて家族一同がお世話になってきた。
そのご子息に父の面倒をみていただけることは、我々家族としては何よりのことだった。
加えて、この特養には、実家の近くで内科医を開業するH先生が提携医として出入りしておられた。
先代の院長である、H先生の父上は、父の親しい友人でもあり、古くから私も含めて家族一同がお世話になってきた。
そのご子息に父の面倒をみていただけることは、我々家族としては何よりのことだった。
父は、認知症の進行はあるものの、それ以外に持病はなく、スタッフの皆さまによくしていただきながら、平穏に生活していた。
6月30日(日)。
昼前、いつものようにオケ練に向かうべく家を出て、最寄り駅のホームに上がったところへ、H先生からの電話連絡。
朝食後、父に変調があったとのことだった。
朝食後、父に変調があったとのことだった。
オケ練は急遽欠席し、一旦家に戻って楽器を置き、木更津に向かった。
東京から妹も呼んだ。
東京から妹も呼んだ。
この時は大事には至らなかったが、H先生のお話では、高齢による衰えからくるもので、これといった手立てはないとのこと。
時間の問題、ということか。覚悟は決めておかなければ、と思った。
時間の問題、ということか。覚悟は決めておかなければ、と思った。
4日後、7月4日(木)。
会社から帰宅したところへ、H先生から電話。
厳しい状況にあるとの話に、木更津へ急いだが、間に合わなかった。
20時41分、87歳5ヶ月での他界だった。
厳しい状況にあるとの話に、木更津へ急いだが、間に合わなかった。
20時41分、87歳5ヶ月での他界だった。
6日(土)、通夜。7日(日)、告別式、納骨。
そして、この週末、8月3日(土)には、四十九日と新盆の法要となる。
あっという間の日々だったが、何とか色々な対応はできた。
あっという間の日々だったが、何とか色々な対応はできた。
4年前、母の時は、直前まで元気だったのに本当に突然だったので、驚きも動揺も大きかった。
息子にとって、母親の死がとりわけこたえた面もあった。
息子にとって、母親の死がとりわけこたえた面もあった。
しかし、今回については、心の準備もあったし、母の時の経験もあったので、基本的に冷静に対処できたと思う。
色々あったので、いささか疲れが出てきてはいるが、週末の法要、そして新盆を済ませれば、とりあえずの区切りはつく。
ふりかえると、私が施設に顔を出すのは、1~2ヶ月に1回程度だった。
それは、会っても私が誰であるかはわかってもらえず、会話もなりたたない状況だったこともあるが、今になってみれば、もっと顔を見に行けばよかった、とも思う。
それは、会っても私が誰であるかはわかってもらえず、会話もなりたたない状況だったこともあるが、今になってみれば、もっと顔を見に行けばよかった、とも思う。
ただ、最後に会った6月30日は、2時間半くらい滞在した。
朝食後の変調から持ち直した父の手を握って、伝わらないながらもあれこれ声をかけたその時の時間は、今となっては貴重だったと思う。
朝食後の変調から持ち直した父の手を握って、伝わらないながらもあれこれ声をかけたその時の時間は、今となっては貴重だったと思う。
それにしても、母を送り、父を送る経験の中で、つくづく思うのは、そうした局面において、いかに多くの方の善意に支えられ、お世話になってきたか、ということだ。
ケアマネージャーさん。
各施設のスタッフの方々。
そしてもちろんH先生。
各施設のスタッフの方々。
そしてもちろんH先生。
これらの方々のお力がなかったら、とつくづく思う。
今年2月、父の87歳の誕生日。
数えで言えば米寿。お祝いをしようと思ったが、たまたまその時期は、インフルエンザ等の感染症防止のため、面会が禁じられていた。
お菓子を送り、スタッフの皆さんで祝ってやって下さい、という手紙を添えた。
数えで言えば米寿。お祝いをしようと思ったが、たまたまその時期は、インフルエンザ等の感染症防止のため、面会が禁じられていた。
お菓子を送り、スタッフの皆さんで祝ってやって下さい、という手紙を添えた。
その後、面会が解禁となって行った時、「祝!!87才 お誕生日おめでとうございます」と書かれた色紙が部屋に置かれていた。スタッフの皆さんが寄せ書きをして下さったものだった。
また、6月16日(日)の父の日にも、花束を持った父の写真を撮って、飾って下さっていた。
また、6月16日(日)の父の日にも、花束を持った父の写真を撮って、飾って下さっていた。
先週、27日(土)、施設へ行って、挨拶と諸費用の精算。そして、H先生の内科医院も訪ねて挨拶。
施設の相談員さん、H先生と改めて話して、本当に、人の心の暖かさが重ねて身にしみた。
来年2月までがんばってくれたら、満で米寿。その点は少し残念だが、苦しむことのない静かな大往生は、幸せだったと考えている。
母に続いて、とうとう父もいなくなったことには、それなりのさみしさがある。
しかし、頼るべき親はもうなく、これで本当に我々の世代が色々やっていかなければならないのだ、と身の引き締まる思いの方が強い。
しかし、頼るべき親はもうなく、これで本当に我々の世代が色々やっていかなければならないのだ、と身の引き締まる思いの方が強い。
1日、1日を大切に、元気でできるだけ長く生きなければ。
※関連の過去記事
母の急逝
http://blogs.yahoo.co.jp/naokichivla/60379607.html
第22回浦安市民演奏会本番終了<4> 個人的な特別の思い
http://blogs.yahoo.co.jp/naokichivla/60654293.html
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