naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

搾菜の思い出

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夕食をほぼ食べ終えた、という時に、妻が、冷蔵庫からビールのつまみにと、桃屋の搾菜のビン詰めを出してきた。

この、桃屋の搾菜を見るたびに思い出すことが、2つある。

そもそも、私の人生において、搾菜というものは、最初からあったわけではなく、その存在を知らなかった。

「搾菜」という食べ物があることを知ったのは、團伊玖磨氏の随筆「パイプのけむり」でだった。

正方形に近い形で、透明なビニールのカバーがかかった単行本を、私の母は、いつも千葉に住む伯母に借りてきて読んでいて、それを私も読んでいた。

どの巻だったか忘れたが、その中に、搾菜をテーマにした随筆が載っていたのだった。

いつのことだっただろうか。実家で生活していた時だから、とにかく中学生か高校生の時だったと思う。

中国産の搾菜という食べ物がある、との記述に、いたく興味をひかれた私は、母に、「搾菜」というものを食べてみたい、とねだったのだった。

で、おそらくその時に、母が買い求めてきたのが、桃屋のビン詰めだったと記憶する。

これが、搾菜との出会いだ。

そして、もう1つ。

搾菜についての、忘れられない思い出は、大学時代のことだ。

先に書いてしまうが、金がなくて、搾菜で食いつないだ、という話。

国立の6畳のアパートに住んでいた頃だから、大学3年か4年の時。たぶん3年生の秋頃だったと思う。

金がなくなった。本当に手持ちの金がなくなったのだ。

当時、もちろん、親から仕送りをもらっていた。国立駅前に今もある、多摩信用金庫に預金口座があって、月1回、仕送りが振り込まれてきていた。キャッシュカード、というものを持ったのはこの時が初めてだった。

加えて、家庭教師他のアルバイトもしていた。

にもかかわらず、レコードを買いまくったり、オケ仲間と飲んだりしていたので、常に貧乏だった。

そんなある日、本当に金がなくなった。とことんなくなった。

まあおそらく、明日には仕送りがくる、というぎりぎりの時だったと思う。

で、そんな時でも当然に腹は減ったのだ。

当時、半分は自炊、半分は外食、という生活だった。

しかし、その時は、アパート近くの学生向けの飯屋に行く金すらなく、アパートの台所には何の食材もなかった。

まさに進退窮まったその時、米だけはあることに救いを求め、電気釜で飯を炊きつつ、最後の救いを求めて、私は国立駅前の、今はなくなってしまったが、当時、富士見通りの入口のところにあった、国立デパートというところに行った。

  <後日追記>
    ケンさんからコメントいただきましたが、富士見通りでなく、旭通り入口でありました。

で、持ち合わせの金で、何かせめておかずになるものは買えないか、とさがした末に、買い求めたのが、桃屋の搾菜のビン詰め1本だった。

部屋に戻って、炊きたてのごはんと、その搾菜で、空腹を満たした。

食べながら、「お金がないって辛いなあ」としみじみ思ったものだ。

この時のことは、今でも昨日のことのように覚えている。

今から思うと、別に搾菜なんかなくても、炊きたてのごはんがあるなら、醤油をかけて食べるだけでもしのげたんじゃないか、という気もするが。

ともあれ、昔と変わらぬ、桃屋のビン詰めを見るたびに思い出す、青春のひとコマである。