10日(土)の公演は、開場13:15、開演14:00。
約2時間45分、休憩なしの上演である。
私の席は、2階1列16番。最前列の良い席だった。
オケピットにハープが6台並んでいるのが見える。おー、すごい。
指揮・芸術監督 飯守泰次郎
演出 ゲッツ・フリードリヒ
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
ヴォータン ユッカ・ラジライネン
ローゲ ステファン・グールド
ファーゾルト 妻屋秀和
ファフナー クリスティアン・ヒュープナー
アルベリヒ トーマス・ガゼリ
フリッカ シモーネ・シュレーダー
フライア 安藤赴美子
演出 ゲッツ・フリードリヒ
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
ヴォータン ユッカ・ラジライネン
ローゲ ステファン・グールド
ファーゾルト 妻屋秀和
ファフナー クリスティアン・ヒュープナー
アルベリヒ トーマス・ガゼリ
フリッカ シモーネ・シュレーダー
フライア 安藤赴美子
ゲッツ・フリードリヒの演出による、新制作である。
フリードリヒの「リング」と言うと、1987年にベルリン・ドイツ・オペラが来日した時の演出が有名だ。舞台上に巨大なトンネルを据えるというものだった。
入場した時から、オケは既に大多数の楽員がピットに入ってさらっているところだった。指揮者も開演前に入ってきて指揮台の前に座った。
舞台、客席が暗くなり、舞台下手からアルベリヒが登場。指揮者が出てきたかと勘違いしたのか、少し拍手がわいた。
Esの音が静かに通奏され始める。
以後は、不案内な中、また日頃の疲れもあって、途中ところどころで瞬間寝落ちを繰り返しながら、最後まで観て、聴いてのとりとめない感想である。
もちろん、初めての「リング」実演、大きな感銘を受けた。これが「リング」の世界か、と思った。
ただ一方、ピンとこずに終わった部分もある。
違和感、というのかな。
「マイスタージンガー」や「トリスタン」は、若い頃から繰り返し聴いているので、一応はよく知っているつもりだ。「マイスター」は、実演に4回か5回接している。
ろくろく予習もせずに臨んだ今回の「ラインの黄金」は、それらと同列にはもちろん論じられないのだが、違和感、と書いたのは、いくつかの要素がある。
まず、オペラの形というか、編成のことなのだが、「ラインの黄金」には、合唱が出てこない。最初から最後まで、ソリストの歌だけだ。これは、ワーグナーの他の作品も含めて、これまで私が経験してきたオペラにはなかった形だ。
次に、全編にわたる「暗さ」。
合唱がないので、祝祭的な感じがまったくない。これはまあ、短絡的な感想ではあるが、「ところどころでいいから、合唱ほしいなあ」と思いながら聴いたのは事実。
「マイスター」のような晴朗さがほしいというわけではない。ただ、明るさがないにせよ、「オランダ人」や「トリスタン」のように、合唱の持つパワーみたいなものが、要所で聴きたかった、という気がした。
確かに「暗いオペラ」というのは、他にもある。ただ、何と言うんだろう、この「ラインの黄金」の、最初から最後まで、パーッと晴れたところのないままの世界というのは、何かもやもやと胸のつかえがとれずにずーっと過ごした感じがある。
お話の場面自体が、ライン河の川底から始まって、地下のリーゼンハイムとかだから、仕方がないんだけどね。それはわかるんだけど。
視覚に入ってくるものもそういうことなのだが、物語自体に、あんまり鮮明なわかりやすさがないとも感じた。
一番思ったのは、ヴォータン。この人のキャラって、何なんだろう、としばしば思った。
4部作全編の主人公であること、神であることは、何となく知っていた。レコードでも、名だたるバリトンのスター歌手が歌っているし、つまりは、「立派な人(じゃなかった、神)」なんだろう、というイメージを持っていた。
4部作全編の主人公であること、神であることは、何となく知っていた。レコードでも、名だたるバリトンのスター歌手が歌っているし、つまりは、「立派な人(じゃなかった、神)」なんだろう、というイメージを持っていた。
全然違いますね。最初の内は、むしろ情けないキャラというか、知恵袋のローゲに頼るばっかりで、自分じゃ何にもできないじゃないですか。神なのにね。
しかも、話が進むにつれて、結構悪人になっていく。権力欲が前面に出てくるし、指環を奪い取るというのは、ほんとに、これ、神様がすることなの? と感じる。相手から追いはぎ呼ばわりまでされるんだから。
鮮明なわかりやすさ、と書いたのはそういう部分だ。全体が暗いお話であっても、正義と悪、といった対立構造が明確であれば、話に入っていけるのだが、この「ラインの黄金」には、それがない。
「権力」と「愛」の対立構造はある。しかし、登場人物にそれをあてはめた場合に、神が愛の側、という設定になっていない。ヴォータンは、神でありながら愛ではなく、「正義」でも全然ない。
「ラインの黄金」の4場の最後、神々がヴァルハル城へ入場していく場面は、やっと晴れやかな音楽になって、圧倒的な幕切れとなる。しかし、これは誰かが勝った、正義が勝利した、という結末ではない。
指環は、ファフナーの手に渡り、ヴォータンの手にはない。ただ、どちらの手にあったにせよ、指環自体が権力の象徴で、呪いがかけられている以上、また、ファフナーとヴォータンが、正義対悪という構造でもない以上、その事実は、この時点ではまだ何も意味しない、ということなのだろう。
ここまで書いて自分でも改めて思うが、以上は、あくまで「リング」に不勉強な一個人が、第1作を観ての感想にすぎない。
「ラインの黄金」を、一つの独立したオペラとして「だけ」見た場合、何か消化不良なもの、違和感、もやもやしたものを感じたが、結局のところ、まだ4部作の序夜だ。
それを考えれば、つまり、シンフォニーの第1楽章が終わっただけなのだから、「ワルキューレ」以降の3作に、今後すべて接して、そのときにわかるものがたくさんあるのだろう、と思う。
(そう言えば、この「ラインの黄金」、時間経過としては僅か1日の話なんですね)
それを考えれば、つまり、シンフォニーの第1楽章が終わっただけなのだから、「ワルキューレ」以降の3作に、今後すべて接して、そのときにわかるものがたくさんあるのだろう、と思う。
(そう言えば、この「ラインの黄金」、時間経過としては僅か1日の話なんですね)
同じように、あまりなじみのないままに実演に接したオペラとしては、昨年、同じ新国立劇場で観た、「ヴォツェック」、「アラベラ」があるが、これらの方が、今回の「ラインの黄金」よりは、はるかによく解り、感銘も受けた。
その違いは、独立完結するオペラであるかどうか、というところにある、と考えることにしたい。
この「ラインの黄金」、フリードリヒの演出では、3場のニーベルハイムの場面が、動きがあって引き込まれた。この3場だけは、現代風の舞台装置。一方、1場、2場、4場の舞台は、簡素な作りで、象徴的、抽象的だった。
歌のよしあしはわからないが、キャラ的に言えば、ヴォータンなんかよりは、絶対的にアルベリヒだ。本作の登場人物の中では、アブベリヒのキャラクターの存在感が、圧倒的に光ると思う。
東京フィルの演奏が、力強くてすばらしかった。
さて、ともかく、あと3作を全部観ることができるだろうか。できないとだいぶ意味が減ずるのだが。
オペラのオケって、帰るの早い! 劇場を出て、初台の駅に向かったが、ヴァイオリンやチェロのケースをかついだ楽員さんが、前を歩いている。同じ車両に乗ることになった。
チェロの方は、楽譜を取り出して眺めておられた。
チェロの方は、楽譜を取り出して眺めておられた。