朝青龍のガッツポーズへの批判について、また考えた。
前回の記事(↑これ)に、はむのすけさんからコメントをいただいた。
それによると、剣道の場合、試合後の一礼の前に、ガッツポーズをしたりすると、一本が取り消されるのだそうだ。これは厳しい。
それによると、剣道の場合、試合後の一礼の前に、ガッツポーズをしたりすると、一本が取り消されるのだそうだ。これは厳しい。
で、思ったのだが、確かに、相撲についても、以前はそれに近い雰囲気があった。
例えば、土俵上で、顔に喜怒哀楽を表すことは、戒められていたように思う。どんなに嬉しいからと言って、笑顔を見せたり、どんなに悔しいからと言って、それをあらわにすることは、土俵上の作法としては、許されなかったのだろう。
柏鵬の時代に、力士のそのような表情を見た記憶はない。
柏鵬の時代に、力士のそのような表情を見た記憶はない。
それが変わってきたのは、いつの頃からだったか。
また、これは土俵下でのことになるが、かつて寺尾が、新鋭貴花田を熱戦の末に土俵際まで追いつめながら、惜しい逆転で負けた時に、さがりを土俵にたたきつけて悔しがったことがあった。
それから、小錦が初優勝を決めて、土俵下に下りた時に、人目をはばからずに涙を流したこともあった。
それから、小錦が初優勝を決めて、土俵下に下りた時に、人目をはばからずに涙を流したこともあった。
これらは、観る人の心を打つものがあったのではないか、というふうに思う。
こうしたことを考えると、今回の朝青龍の行為だけが、突出しているということはないし、今、突然変異的に起きたことではない、と思われてならない。
寺尾や小錦の行為は、スポーツ観戦におけるエンターテインメント性という点では、価値があり、評価されうるものだと思う。
しかし、古来からの固有の歴史を持つ相撲の場合は、競技の場において、自己の感情を抑制することが美徳とされてきた。
結局、今回の問題は、その線引きがポイントなのだと思う。
私の個人的感覚、記憶としては、前回の記事でも書いたが、千代の富士が通算1,000勝を達成した時に、ファンから渡された花束を掲げて、館内の歓呼に応えた姿が、強く印象に残っている。力士がこういう行為をしたのを見たことがなかったから。
あのへんから、線引きが変わってきたような気がする。
あのへんから、線引きが変わってきたような気がする。
そしてもう一つ、千秋楽に土俵下で行われる、優勝力士インタビュー。朝青龍などは、あの場で、両手を挙げて、館内のファンに応える場面をよく見る。
あの土俵下インタビューも、線引きを変えるのに、大きな影響を与えてきたように思う。
あの土俵下インタビューも、線引きを変えるのに、大きな影響を与えてきたように思う。
さて、線引きがどうあるべきか、という今回の問題。
私が最も感じるのは、朝青龍のあの行為が「何故いけないのか」について、批判する側が、明確にしていない、と思われる点だ。
土俵上だったからなのか(同じ動作を、朝青龍が土俵下のインタビューで再三やっていても、そのことを批判する意見はなかったと思う)。
批判をするなら、その理由をはっきりさせてもらいたい。
私は、朝青龍をことさら擁護したいという立場ではない。以前から書いているように、むしろ、朝青龍という力士が、相撲を単なるスポーツとしてとらえ、単なるアスリートとしてふるまっていると見える点は、苦々しくも思っている。
しかしながら、私としては、上に述べたように、力士の所作が、長い間に変化してきたことも事実だということに思い至った時、それは、朝青龍一人の問題ではないと思ったのだ。
少なくとも、千代の富士、寺尾の時代から、今回の朝青龍に至る流れというものは、始まっていたのだ、と。
少なくとも、千代の富士、寺尾の時代から、今回の朝青龍に至る流れというものは、始まっていたのだ、と。
前回の記事にも書いたが、土俵上の所作としては、昨年5月場所千秋楽の白鵬の行為は、今回の朝青龍と同等か、それ以上に問題がある、と私は思っている。
あれはプロ野球で時々見られる乱闘と同じで、相撲でなくとも、スポーツマンシップにもとる行為だと思うからだ。
あの時、白鵬に対して、師匠に対して、何か注意はなされたのだったか?
あれはプロ野球で時々見られる乱闘と同じで、相撲でなくとも、スポーツマンシップにもとる行為だと思うからだ。
あの時、白鵬に対して、師匠に対して、何か注意はなされたのだったか?
そのことで、朝青龍問題がうやむやになっていいものとも思わないが。