政治と宗教については、基本的に書かないようにしているが、今回の民主党の代表選に関連してちょっと一言。
読売新聞のネットニュースによると、鳩山由紀夫氏が、昨31日の夕方、「僕はいったい何だったんでしょうね」と周辺に漏らしたと言う。
思わず失笑した。
「失笑」という言葉がこんなにハマる話を聞いたことがないと思った。
「失笑」という言葉がこんなにハマる話を聞いたことがないと思った。
とすれば、それは個人的な欲求。
自分が「ついこの間辞任したばかりの前総理」であることを自覚していれば、今回のそうした一連の動きはなかったのではないか、と感じる。
自分が「ついこの間辞任したばかりの前総理」であることを自覚していれば、今回のそうした一連の動きはなかったのではないか、と感じる。
最終的に菅氏と小沢氏の対決となるまでの間、鳩山氏からは色々な発言があったが、一つ聞き捨てならないと思ったのが、小沢氏への支持に転じたことについて問われた時の、「小沢先生のおかげで自分は総理大臣にまでお導きをいただいたので」という発言だ。
これには耳を疑った。
自分が総理としてまっとうし得なかった、数々の課題を抱える今の日本。
その日本のこれからをどうしていくのか考えるのが、政治家の仕事だろうと思う。
国会議員に限らず、政治家という立場にある人は、すべからくそうあるべきだと思う。
国会議員に限らず、政治家という立場にある人は、すべからくそうあるべきだと思う。
まして、政権与党の、前総理である。
その人が、自分が総理の椅子に座れた恩義を口にする、というのは、どう考えてもまずいことではないか。
まずいと言うか、私には非常に幼稚な発言に聞こえた。
政治家に求められる、大所高所、大局、大計といった視点からはまったくほど遠いものと感じた。
まずいと言うか、私には非常に幼稚な発言に聞こえた。
政治家に求められる、大所高所、大局、大計といった視点からはまったくほど遠いものと感じた。
この談話には当然文脈というものがあろう。民由合併の時からの同志、という言い方もあったと思う。
また、総理にしてもらった恩義が、別に小沢支持の主たる理由というわけでもないのだろう。
それはわかる。片言隻句をあげつらって批判したいわけではない。
しかしだ。
たとえばそれが小沢支持理由のわずか0.1%のウエイトであったにせよ、それは言葉にしてはいけないものだと思う。
片言隻句にさえしてはいけないのだ、と私は考える。
たとえばそれが小沢支持理由のわずか0.1%のウエイトであったにせよ、それは言葉にしてはいけないものだと思う。
片言隻句にさえしてはいけないのだ、と私は考える。
鳩山氏の内心にそれがあったにせよ、口にしてはいけない。きわめて個人的な部分の話だからだ。
政治家であれば、「私」ではなく「公」の立場で物を語るべきではないか。
繰り返すが、政権与党の、前総理だった人である。
その人からこういう言葉が発せられたことに、愕然とした。
その人からこういう言葉が発せられたことに、愕然とした。
そういう人が、つい先日まで国を預かる総理大臣だったのだ、としみじみ思った。
で、とどめが「僕は何だったんでしょうね」。
これも一国の総理を務めた人の言葉ではないなあ・・・(再度失笑)。