naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

佐村河内守の件

佐村河内守の件。

朝の通勤車中で読んだスポニチの記事で知った。

やっぱりびっくりした。まさか、と。

色々なことを思ったりしているのだが、どう考えたらいいのか、なかなか難しいね。

瞬間、思い浮かんだのは、少し前に騒がれたメニュー表示の偽装問題。

九条ネギだとか、何たら海老だとか、高級食材と表示された食材が、実は違った(安いものだった)、という問題。

私は、佐村河内氏については、普通程度の知識、情報しかない。NHKのドキュメンタリー番組は観た。その後、「HIROSHIMA」が演奏されたステージの映像も録画して、ちゃんと観たわけではないが、流す程度に聴いた。

決まって「現代のベートーヴェン」という呼ばれ方をしていることには、少なからず違和感を感じていた。あまりに安易な形容に思われたからだ。

ショップに行けば、CDやDVDがいくつか並んでいたが、1点も買うことはなく過ごしてきた。それは、いかにも音楽が暗そうで、好んで聴きたいという気にならなかったからだ。

今回の件を知って、自分が、CDやDVDを買わずにきたことにほっとする気持ちがあった。騙されずに済んでよかった、というような。

もし買って聴いて、感激、感動した経緯があったとしたら、どんな気持ちだっただろうか。
落胆? あるいは自分を恥じる、責める気持ち?

また、前記のドキュメンタリーでは、彼の作品の演奏会の場面もあった。演奏会場の客席には佐村河内氏も来ていて、演奏終了後に万雷の拍手を浴びていた。

あの時に感動の拍手を送っていた人たちは、今、どう思っているのだろう。

そんなことを思った時に、今回のこの事件、色々難しいな、と考え込んだ。

前記のメニュー表示偽装問題だと、高級食材でないものを高級食材と偽って食べさせた、偽りを信じて食べた、騙された、という話だ。

でも、今回の件だと、モーツァルトの作品とのふれこみで演奏された音楽に感動していたら、偽作だった、というのとはちょっと違うような気がする。

そこで演奏された音楽自体は、誰が作ったものであろうと、その音楽であることに違いはない。

鳴った音楽に罪はない、というか、鳴った音楽が純粋に聴衆の心を揺さぶった効果そのものに嘘はない。

私がもしCDやDVDを買って感動していたとして、今日、真実を知って裏切られた、という気持ちになったと仮定すると、そういう受け止め方でいいんだろうか、と。

「その音楽」に感動した事実。それ自体は、この件があろうと変わらぬ真実だと言えるのではないか。この件で、何が損なわれたのだろうか。そこが難しい。

最初から、佐村河内氏と新垣隆氏の共作、として発表されていたら、問題なかったということだろうか(実際に共作だったかどうか、私には正確に把握できていないが)。

一つ思うのは、もしかすると、同じ音楽が、新垣氏の作品として発表されても、ここまで話題になり、売れることはなかったかもしれない、ということだ。

一方、佐村河内氏は、被爆2世で、聴覚障害や病気と闘いながら、それでも作曲を続けている、という話題性、ビジネス的に言えば付加価値がある。新垣氏のことは、今回初めて知ったので、不用意な比較になるが、おそらく新垣氏と佐村河内氏の、そうした意味の付加価値には、決定的な開きがあると思われる。

「誰が作ったものか」を除けば、「その音楽」自体は、唯一無二のものであり、「その音楽」が人を感動させた作用、事実自体も不動のものだと思う。たぶん。

いや、そうでなく、その感動は、被爆2世云々を始めとする、佐村河内氏にまつわる話題性の部分から来るプラスアルファ効果からもたらされたものであって、それが嘘だった、というところに、今回の時間の罪があるのか。

となると、やはりメニュー表示偽装問題と同じ次元の問題なのか。

つまり、「食べておいしい」と思った事実はあるが、「食べたものが何だったか」は違っていた、というパターン。

聴いて感動した事実はあるが、そこに、佐村河内氏の話題性からくる要素があったとすれば、やはりそれは表示の問題ということになるのか。

音楽自体に感動したことを、事実が明らかになった今でも、動じることなく堂々と言える人。

嘘をついた人の作品に感動したことに落胆し、恥じる人。

様々なんだろう。

瞬間、騙されなくてよかった、と思った私は、もし聴いて感動した経緯があったとしたら、どっちなのか。

そんなことを思いながら風呂に入り、つけたラジオのFM放送では、ベートーヴェンの1番のピアノ・コンチェルトをやっていた。