naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

日生劇場「コジ・ファン・トゥッテ」


2019年、宇奈月オペラの演目なので、だいぶ早いが予習の意味もあり、足を運んだ。もっとも、その宇奈月オペラに乗せてもらえるかは、まだ決まっていないのだが(笑)。

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入場前、付近を歩いていて見かけたゴジラ

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満員御礼!

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プログラム冊子から。

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副指揮者のところに、以前浦安オケでお世話になった、喜古先生、堀先生が。

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私の関は、グランドサークル階、B列15番。下手寄りの席だった。

日頃、オペラは新国立劇場で観るのがほとんどだが、この日生劇場のように小ぶりな会場でのオペラも、とても良いものだ。「小屋」という感じがする。また、日生劇場グランドサークル階の席は、高さもいいし、座った雰囲気もいい。

プログラム冊子を読んだら、今回の公演は、フィオルディリージとドラベッラの姉妹を、生身の人間でなく、人工知能を持つアンドロイドとして設定していることがわかった。

実験室で作った人間そっくりの恋人をテストする話、との設定で、このオペラのストーリー、登場人物設定を、今日的な観点から考えたもののようだ。

指揮の広上さんは、チューニング前に既にオケピットに入っていた。客席は気づかず、拍手もなし。

チューニングが終わると、ステージにドン・アルフォンソが現れ、手にしたリモコンを広上さんに向け、ボタンを押すと、序曲が始まった。

舞台は、研究室風の部屋から始まり、ノートパソコンを持った、フェルランドとグリエルモが、2体のアンドロイドを完成させる。

舞台設定は現代風なもので、ノートパソコンから、ランニングマシン、腰掛け便器(複数の個室がある女性用トイレが主要な場の一つとなる)、宇宙服、テレビカメラ、卓球台、スマートフォンなど、思いがけぬ小道具が次々と出てきて面白かった。

基本的に、ドタバタを強調した演出で、多少の下品さを厭わない感じがあった。しばしば客席から笑いが上がった。

私の右隣に年配の女性の団体がいて、1幕が終わったところで、嫌な演出だと、呆れたように、口々に批判的な言葉を述べていたが、私には面白かった。

(それまで掃除婦の格好をしていたデスピーナが、2幕のアリアで、突然SMの女王様みたいなコスチュームに早変わりしたのが、一番インパクトがあった。このアリアの「女は女王のように玉座から男を従わせるもの」という歌詞に合わせたのだろう)

以下は包括的な感想にとどまるが、モーツァルトのオペラの中でも、アリアよりもアンサンブルに重点が置かれたこの作品の魅力を、存分に味わうことができた。

物語の骨子は単純で、他愛もないと言えば他愛もないものと言えるが、ダ・ポンテによる、話の細かな組み立てや人物描写は、誠に感服させられるものがある。この点は、「魔笛」よりもはるかに優れた作品だと思う(ベートーヴェンワーグナーは、この台本に批判的だったそうだし、現代の価値観から見ても色々な意見はあるだろうが)。

そして、その台本につけたモーツァルトの音楽のすばらしさを、全曲にわたって実感させられた。時にシリアス、時にコメディ。一分の隙もない、とはこのことだと思った。

本当によくできたオペラだ。

歌手では、ドン・アルフォンソとデスピーナがよかった。このオペラにおける役回りによる面もあるが(言うまでもないが、この2人なくして、このオペラの面白さはない。特にデスピーナ)。

2幕の最後は、横たわった2体のアンドロイドに、フェルランドとグリエルモが、透明なビニールを被せてかたづけようとすると、アンドロイドがすかさず起き上がり、脇にあった銃を男2人に向ける、という動作で終わる。

人間に翻弄されたアンドロイドの反乱、ということなのだろうか。この後はどうなるんだろう、と興味深かった。

「コジ」を存分に堪能した。

やっぱり、モーツァルトの神髄はオペラだなあ、とつくづく思った。ピアノ・コンチェルトもシンフォニーもいいが、こういう実演に接すると、断然オペラだという気がする。

9月に宇奈月で「魔笛」を演奏する機会を得、10月には新国立劇場で実演にもふれた。その時は、やっぱり「魔笛」がモーツァルトのオペラの最高傑作だと思ったが、今回の日生劇場では、「コジ」こそ最高傑作ではないか、と思ったりした。

おそらく、今後、「フィガロ」、あるいは「ドン・ジョヴァンニ」の実演を観れば、そのたびに、それが最高傑作だと思うのだろう。

それほど、いずれ劣らぬ傑作が並んでいるモーツァルトのオペラは、私にとってまさしく人生の宝だと思いながら、会場を後にした。

さて、来年の秋、宇奈月で「コジ」の演奏に参加することはできるだろうか。