

入場前、付近を歩いていて見かけたゴジラ。

満員御礼!


プログラム冊子から。


副指揮者のところに、以前浦安オケでお世話になった、喜古先生、堀先生が。

私の関は、グランドサークル階、B列15番。下手寄りの席だった。
日頃、オペラは新国立劇場で観るのがほとんどだが、この日生劇場のように小ぶりな会場でのオペラも、とても良いものだ。「小屋」という感じがする。また、日生劇場のグランドサークル階の席は、高さもいいし、座った雰囲気もいい。
プログラム冊子を読んだら、今回の公演は、フィオルディリージとドラベッラの姉妹を、生身の人間でなく、人工知能を持つアンドロイドとして設定していることがわかった。
実験室で作った人間そっくりの恋人をテストする話、との設定で、このオペラのストーリー、登場人物設定を、今日的な観点から考えたもののようだ。
指揮の広上さんは、チューニング前に既にオケピットに入っていた。客席は気づかず、拍手もなし。
チューニングが終わると、ステージにドン・アルフォンソが現れ、手にしたリモコンを広上さんに向け、ボタンを押すと、序曲が始まった。
舞台は、研究室風の部屋から始まり、ノートパソコンを持った、フェルランドとグリエルモが、2体のアンドロイドを完成させる。
舞台設定は現代風なもので、ノートパソコンから、ランニングマシン、腰掛け便器(複数の個室がある女性用トイレが主要な場の一つとなる)、宇宙服、テレビカメラ、卓球台、スマートフォンなど、思いがけぬ小道具が次々と出てきて面白かった。
基本的に、ドタバタを強調した演出で、多少の下品さを厭わない感じがあった。しばしば客席から笑いが上がった。
私の右隣に年配の女性の団体がいて、1幕が終わったところで、嫌な演出だと、呆れたように、口々に批判的な言葉を述べていたが、私には面白かった。
(それまで掃除婦の格好をしていたデスピーナが、2幕のアリアで、突然SMの女王様みたいなコスチュームに早変わりしたのが、一番インパクトがあった。このアリアの「女は女王のように玉座から男を従わせるもの」という歌詞に合わせたのだろう)
以下は包括的な感想にとどまるが、モーツァルトのオペラの中でも、アリアよりもアンサンブルに重点が置かれたこの作品の魅力を、存分に味わうことができた。
物語の骨子は単純で、他愛もないと言えば他愛もないものと言えるが、ダ・ポンテによる、話の細かな組み立てや人物描写は、誠に感服させられるものがある。この点は、「魔笛」よりもはるかに優れた作品だと思う(ベートーヴェンやワーグナーは、この台本に批判的だったそうだし、現代の価値観から見ても色々な意見はあるだろうが)。
そして、その台本につけたモーツァルトの音楽のすばらしさを、全曲にわたって実感させられた。時にシリアス、時にコメディ。一分の隙もない、とはこのことだと思った。
本当によくできたオペラだ。
歌手では、ドン・アルフォンソとデスピーナがよかった。このオペラにおける役回りによる面もあるが(言うまでもないが、この2人なくして、このオペラの面白さはない。特にデスピーナ)。
2幕の最後は、横たわった2体のアンドロイドに、フェルランドとグリエルモが、透明なビニールを被せてかたづけようとすると、アンドロイドがすかさず起き上がり、脇にあった銃を男2人に向ける、という動作で終わる。
人間に翻弄されたアンドロイドの反乱、ということなのだろうか。この後はどうなるんだろう、と興味深かった。
「コジ」を存分に堪能した。
やっぱり、モーツァルトの神髄はオペラだなあ、とつくづく思った。ピアノ・コンチェルトもシンフォニーもいいが、こういう実演に接すると、断然オペラだという気がする。
9月に宇奈月で「魔笛」を演奏する機会を得、10月には新国立劇場で実演にもふれた。その時は、やっぱり「魔笛」がモーツァルトのオペラの最高傑作だと思ったが、今回の日生劇場では、「コジ」こそ最高傑作ではないか、と思ったりした。
それほど、いずれ劣らぬ傑作が並んでいるモーツァルトのオペラは、私にとってまさしく人生の宝だと思いながら、会場を後にした。
さて、来年の秋、宇奈月で「コジ」の演奏に参加することはできるだろうか。