少し前に、知人の女性(A子さんとしておく)が、流産していたことを知った。
A子さんは、マイミクなのだが、mixiの日記と、ネット上のブログをやっている。
久しぶりにブログの方を訪問してみたら、流産のことが書かれていた。
気持ちを整理するため、として、前後の心情が詳細に綴られていたが、読んでいて涙が出た。
気持ちを整理するため、として、前後の心情が詳細に綴られていたが、読んでいて涙が出た。
他方、浦安内外のオケ関係では、たまたまこのところ、出産適齢期の女性が3人、相次いで赤ちゃんを産んだ。
3人ともマイミクで、妊娠中の日々、陣痛から出産に至る体験談などを、日記に詳細に書いている。
読んでいて、ああ、無事に元気な赤ちゃんが産まれてよかったなあ、と嬉しくなる。
読んでいて、ああ、無事に元気な赤ちゃんが産まれてよかったなあ、と嬉しくなる。
ブログやmixiができる前だったら、それぞれの女性と私の関係において、これほどに臨場感のある、また心情を直接あらわした話を聞かせてもらう機会はなかったと思う。
しかし、今のネット時代、情報発信が容易になったことで、リアルな人間関係の距離とは別に、そうした情報を受け取れるようになった。
しかし、今のネット時代、情報発信が容易になったことで、リアルな人間関係の距離とは別に、そうした情報を受け取れるようになった。
まったく第三者の立場で、情報を受け取っている私としては、一方でせっかく授かった命を喪った話を読み、一方では無事な出産の幸福に包まれている日々の話を読み、人生というものの、何と言うのか、不条理、理不尽を思わされる。
昨年の11月に、会社の者が、渋滞停車中に第三者車両に追突され、危うく命を落としかかったことを書いた。
順調な人生が、ある日突然断ち切られることもありうるのだ、と感じ、命というものの心もとなさを痛感させられたことを書きたかった。
順調な人生が、ある日突然断ち切られることもありうるのだ、と感じ、命というものの心もとなさを痛感させられたことを書きたかった。
A子さんの流産は、彼女と彼女の夫君との間に宿った小さな命が、人生というレールに乗ることがないまま、天に還っていったということだ。
別の意味だが、どちらも、命のはかなさを思わずにいられない。
人が生まれ、元気に育ち、事故、病気に遭わずに長生きした末に天寿をまっとうする、というのは、当たり前のことではないのだ、いや、むしろある種の奇跡とも言えるのだ、と思う。
不条理。理不尽。やむを得ないのかもしれない。
ただ、願いたい。
無事に産まれてきた3人の赤ちゃんは、すくすくと元気に育ってほしい。
そして、A子さんには、喪われた赤ちゃんへの思いは消えないにしても、いつか近い内に、新しい命が授けられて、今度は無事に人生のレールに乗ってほしい。A子さんと夫君に、代え難い幸せをもたらしてほしい。
私がA子さんの流産の記事を読んだ時の衝撃は大きかった。しかし、現実の流産からは相応の日数が経っていた。
さだ(まさし)さんの、「道化師のソネット」の歌詩を、その時私は思い出していた。
「笑ってよ君のために 笑ってよ僕のために」
「いつか真実(ほんとう)に笑いながら話せる日がくるから」
「いつか真実(ほんとう)に笑いながら話せる日がくるから」
私は、A子さんに、「笑えてるよね?」とメールを送った。
気丈な返信がきたので安堵したけれど、私の問いかけは、もしかするとまだ早すぎたかもしれない。
気丈な返信がきたので安堵したけれど、私の問いかけは、もしかするとまだ早すぎたかもしれない。
でも、きっと、いつかほんとうに・・・、と願う。