三川内焼、皿山地区の散策を終えて、現地ガイドのHさんともここでお別れし、バスに乗って、次の目的地に向かった。
15分ほど走って着いたのが、無窮洞という場所。
ここでも、現地ガイドの方が待っていて、案内してくれた。
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空襲があっても生徒たちが勉強できるようにとの校長の発案で、高等部(今で言う中学)の男女生徒が掘ったものだという。
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狭い入口を入って行くと、これを子供が掘ったのか、と驚嘆する大きなシェルター。
全校生徒600人が入ることを想定したのだそうだ。
全校生徒600人が入ることを想定したのだそうだ。
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使われた道具や、当時の写真が展示されている。
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入ったつきあたりが、ここで授業を行うことを想定しての教壇になっている。
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その教壇から、入口方向を振り返ったところ。
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右に折れて進む。
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次の角には、万一の時に外に逃げるためのらせん階段が設けられている。
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かまど。
![イメージ 13](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/naokichivla/20190903/20190903090530.jpg)
しかし、こういうものを見ると、何とも胸の詰まる思いがする。
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この無窮洞が掘られたのは、昭和18年から20年。しかも、8月15日その日まで掘り続けられたのだと言う。
6日前に、近くの長崎に原爆が落ちた情報は、伝わっていなかったのだろうか。