新国立劇場で「ワルキューレ」が上演されるのは今回で4回目。2002年、2009年にはキース・ウォーナー演出の公演、2016年にゲッツ・フリードリヒ演出の公演が行われている。4回目の今回もフリードリヒ演出である。
フリードリヒのプロダクションは、「リング」全曲チクルスとしての上演(2015年~2017年)のであり、私は四部作すべてに行った。
一度観ているので、今回はどうしようかと多少迷ったのだが、やはりめったに上演されない大作だし、行くことにした。
11日(木)から始まった5回公演、スケジュールを検討したところ20日(土)が最も好都合だったのだが、あいにくそうと決めた時点ではチケットが完売しており、千秋楽となる23日の公演に午後半休を取って出かけた。
オペラシティに着き、築地食堂源ちゃんで昼食。ここでのオペラやコンサートの前はたいていこの店だ。
鰹のたたき。
コンサートチケットを提示するとディスカウントがあります。
オペラパレスへ。
場内では飲食物の販売はない。ペットボトル1本売っていない。ほしければ外に出てコンビニなどで買うしかない。
開演前のホワイエもこんな感じ。ワインやシャンパンのグラスを手に語り合うなんてこともできない。さみしいことだ。
今回の公演は、前回同様飯守泰次郎氏指揮の予定だったが、氏の健康上の理由で変更。最初の4回は芸術監督の大野和士氏、私が行った最終日のみ城谷正博氏が指揮した。
また、ソリストも新型コロナウイルスによる入国制限のため、ジークムント、フンディング、ヴォータン、ジークリンデ、ブリュンヒルデという主要な役が変更となった。
ジークムントは、1幕と2幕で別の歌手が歌うが、キャスト表を見ると互いにカバーを務めている。
私の席は、1階15列19番。ふだんは2階席にするのだが、購入時に空いていた席を検討の結果、珍しい1階席にした。今は65歳以上割引価格の適用が受けられる。歳はとりたくないが、ありがたい。
幕が上がると、見覚えのある斜めに傾いた部屋のセット。
フンディングの家に逃げ込んできたジークムントに、ジークリンデは水を飲ませるが、ほどなくして「蜜の酒」を飲ませる。「トリスタンとイゾルデ」で二人が媚薬を飲む場面を思い出す(作曲は「ワルキューレ」の方が少し早いものの、ほぼ同時期)。
音楽も、その後この双子の兄妹2人で進められていく場面の甘美さは、「トリスタン」を思わせる。
甘ったるくはない、節度ある甘美さとでも言えばいいのか、そこがワーグナーらしいと思う。これがR.シュトラウスだと、とことん甘い音楽になるところだ。
(芝居の上でも、2人がべたべたとくっついたり抱き合ったりという動作はほとんどなかった)
演出面で一つ物足りなかったのは、トネリコに刺さった剣の取り扱い。客席側から舞台奥に向けて刺さった形になっているため、それがこのオペラの最重要アイテムである剣であることが(少なくとも正面中央寄りに座っている私の席からは)観てわからない。ジークムントが抜いた時点では、それなりに立派な剣だとわかるが、もっと最初から、これが問題の剣なのだと、照明を当てるなどして目立たせた方がよかったと思う。
それはともかく、第1幕、大変聴きごたえがあった。小林厚子のジークリンデが立派な歌。村上敏明のジークムントもよかったと思ったが、最後の最後、声がひっくり返ったか?
今回の公演においては、ピット内の間隔を確保する目的で、アッバス版と呼ばれる管弦楽縮小版が用いられた。管楽器全体がオリジナルから約半分に縮小されているのだそうだ。
先月、東京二期会の「タンホイザー」を聴いた時、オケの厚みが不足するように感じた。あの時は10型だったようだが、今回の東京交響楽団は、メンバー表を見ると12型。最初、部分的に室内楽のように聞こえるところもあったが、全曲を通じては、量感に不足はなく、編成縮小の印象は受けなかった。本来の編成に遜色を感じるところがない、すばらしい迫力、演奏だった。
第2幕。
ブリュンヒルデが登場。ヴォータンとからむ場面の歌い出しの輝かしい声に、これはすごい、と引き込まれた。
(キャスト変更で歌うことになった池田香織は、先月の「タンホイザー」でヴェーヌスを歌った人だ)
続いて登場するフリッカ。バイロイト音楽祭にも出演しているワーグナー歌手として知られる藤村実穂子は、特にフリッカを当たり役にしていると聞く。貫禄の歌唱だった。出番が短いのが実に残念。
さて、ヴォータン。前から思っていることだが、何かしょうもない奴だね、この人(あ、神か)。
この作品を知らない頃から、神というなら、もっと賢者、聖者的なイメージを持ってたんだけど、違う。
フリッカを説得してやる、と意気込んで話し始めても、全然太刀打ちできない。何を言っても反論されてやりこめられて。完敗だ。
夫婦の力関係に発する、ジークムントに対するここでの方針転換が、「ワルキューレ」以外も含めた以後の物語全体にとって、幸か不幸かきわめて大きい意味を持つ。
結果として間もなくその犠牲となってしまうのがブリュンヒルデだが、彼女はこの父親にはもったいない、いい娘だよねえ。強くて賢くて、父親思いで。
しかしまあ、「契約の神」という設定にあっては、ヴォータンが「結婚の女神」フリッカに論破されるのは仕方がないのだろう。このくだりでのやりとりを聴いていると、妙に納得させられもする。これがワーグナーの力?
動きがなくて長い、と作曲当初から言われているという、この第2幕。
娘に語る父親のモノローグは、確かに長い。説明的だし。でも、そこがワーグナーのワーグナーたる味わい、ということなんだろうな。聴かされてしまうところがある。
(それにしても、ヴォータンを歌う歌手は大変だろうな、と思う。長い歌を歌詞ともども覚えなければならないんだから。橋田壽賀子の長ゼリフかワーグナーのモノローグか)
そんな長い語りを聴いていると、ヴォータン、しょうもないんだけど、そこで語られる悩みはそれなりにシリアスにも聞こえてきて、そうかそうか、大変なんだね、と何だかわかる気もしてくる。
それも、クプファー=ラデツキーの歌が圧倒的なすばらしさだったからだろう。客席が息を飲んで静まり返っていた。
とにかく、この長い第2幕が飽きるとか退屈だとかはまったくなかった。
幕切れに向けて突き進む音楽の力は目が眩むようだった。オケの迫力が最高だった。いやあ、すげー! と総身を揺さぶられた。
この第2幕は、かつて観た数々のオペラで受けた感銘の中でも屈指のものだった。
同じプロダクションを一度観ているわけだが、前回がここまでのものだった記憶は残っていない。
ソリストは皆すばらしかったが、特にと言えば、やはりヴォータンとブリュンヒルデ。同日公演のダブルキャストとなったジークムントについては、第2幕担当の秋谷直之がまさった印象。
休憩。第2幕のほてりを鎮める。ビールくらい飲みたいところだが・・・。
第3幕。
冒頭のワルキューレのくだりは、それまでに比べて登場人物の数が増えること、また全員が女性(女声)であることから、第2幕までとは一転して華やかさが際立つ。
(20日(土)、18:09に宮城県沖を震源とする大きな地震が発生し、関東もだいぶ揺れたが、その時がちょうどこの場面だったそうだ)
ブリュンヒルデ以外のワルキューレたちの歌はやや線が細い印象だったが、一方、ジークリンデはとてもよかった。
前幕とは違って動きも多く、引き込まれる。
しかし、やがてジークリンデもワルキューレたちも去り、ヴォータンとブリュンヒルデの2人だけの場面がやってくる。シチュエーションとしては第2幕に戻った感じだ。
ヴォータンがまたまた語る。
やっぱり変な話だよな、とまた思ったりする。フリッカを説得できずに翻意し、朝令暮改を行ったヴォータン。元はと言えばジークムントを助けろと言っていたわけで、最終的にそのように行動したブリュンヒルデを、何故ここまで激しく怒り、責めるのか。やはり矛盾があると言わざるを得ない。ヴォータンの「真意」というのはどっちなのか。
甘んじて罰を受ける覚悟をしているブリュンヒルデも、そこの矛盾を突く。
わからない話ではあるのだが、その一方で、「リング」全四部作の一つの核心は、今、この場面にあるのだ、と思わされる。
誠に圧巻という他はない父と娘のやりとり。
あの第2幕と同様、客席の全員が身じろぎもできずに引き込まれているように感じた。
ブリュンヒルデが知ってしまった愛の世界と、ヴォータンが身を置く場所は別の世界。理は娘の方にあると思うのだが、互いにいくら主張し合っても、決して交わることはないようだ。
「イゾルデの愛の死」の場面と同じ調で、同じように切ない音楽が響く。
「父上が愛した者を私は愛したのです」は、交わらない中ではあっても、娘が父に刺したとどめと感じる。父との絆を断っても、という娘の覚悟。
「お前との縁は切った」と言いつつ、「我が娘」と呼ぶことをやめないヴォータンに、いまだしょうもなさを感じたりもするが、彼の中に大きな葛藤があり、そこで出した答えが娘への罰であることを、観ている者は理解すべきなのだろう。私にはわかったとは言えないが。
でも、最後の最後、ヴォータンがブリュンヒルデを抱き締めた時はうるっときたなあ。
娘を横たえて眠らせる時、ヴォータンは泣く演出。
とにかく、ヴォータン役は大変だ。第2幕だけでも大変だと思ったが、それに加えて第3幕のこの長丁場。
そして、いよいよ炎。
前回も観た演出だが、舞台上を囲むように上がる炎には、やはり見入ってしまう大きな力がある。
ただ、いつも思うことだが、この炎の場面につけられたホ長調のこの音楽は、私にはどこか涼やかなものに聞こえる。むしろ流れる水のイメージだ。
単体としてのオペラ、「ワルキューレ」は悲劇だと思う。とうとう交わることがなかった父と娘の思い。
炎だけ残して暗くなっていく光景はやはり感動的だった。
音も光も消えた後、長い物語の余韻に浸り、味わう時間がほしかったが、残念ながら間を置かぬ拍手。
でもそれもわかるな。少しでも早く拍手して演奏者をねぎらいたいと思わせる演奏でもあったのは事実。
歌は皆すばらしかったが、主要な役の中では、やはりヴォータン、ブリュンヒルデ、ジークリンデ。いずれもキャスト変更になった人ばかりだ。
そして、出番が短かったとは言え、もちろんフリッカ。
入場時と休憩時に、Facebookにこの公演のことを投稿したら、それを見た大学オケの友人、Iから、自分も来ているとのメッセージが届いた。終演後、出口で落ち合って、少し立ち話。よかったねえ、と感想を語り合った。Iとはずいぶん久しぶりだ。会えてよかった。
今回の鑑賞で、実演というものの力、貴重さを改めて実感させられた。
これだけの長い時間、座りっぱなしで、ステージを観て、音楽を聴く他はない、気を散らすことができない状況に身を置くことで得られるものは、ながら視聴になりがちなCDやDVDとは圧倒的な差がある。
私程度の知識、勉強度合いでは、この劇場にいても作品の隅々まで観て聴いて味わうことはできないが、それなりに貴重な時間を過ごせた。これだけの大作をこのようにして鑑賞することはめったにできないが、是非また「ワルキューレ」を観る機会を得たい。さらに言えば、「リング」全作をまた観たい。
※関連動画
3月14日(日)公演ダイジェスト
※毎日新聞の批評記事
https://mainichi.jp/articles/20210324/org/00m/200/001000d