naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

人生の「意味」

(前の記事から続く)
それから。

母の死に直面して、誰しもそうだろうが、「死」というものが、かつてなくリアリティをもって自分に迫ってきた。

あらゆることが、空しく感じられた。

間もなく50代半ばにさしかかる自分の人生だって、もうこの先、そう長いわけではない、と思った。

10年先、20年先、元気で生きている保証はないのだ。

とにかく、いずれ自分も死んでしまうのだ。

会社で仕事をしたり、オケで楽器を弾いたり、ウォークマンで音楽を聴いたり、ブログを更新したり、そういうことが、すべて刹那的な享楽に思えて、意味を認められない気がした。

人間、どうせ死んでしまうのに、こうして日々生きて時間を過ごしていくことに、何の意味があるのか、と。

そんなことを思ったのは、「母の人生には、どういう意味があったのか」、と考えさせられたからだ。

80年近く生きた。短くはない。
真面目に、誠実に、家のために働き、我々子供を育て、福祉や地域の活動をした。
それでも、死んでしまったら、すべてがゼロではないのか。
何にもならないのではないか。

そんな思いにとらわれた。

渦巻くそれやこれやの思いに、まだちゃんとした答えは出ていない。

でも、1ヶ月経った今、「決して、意味がないなんてことは、ないんだ」という気持ちには傾きつつある。

母の人生の「意味」は、残された私が、これから一所懸命考えて(考え直して)、自分の心に刻むべきものなのだろう。

そうでなかったら、肉体がこの世から去った母の人生は、本当に、何にも残っていないことになってしまう。

母の人生の「意味」を明確にすること、それを自分の心の中にしっかり刻むのは、残された者の使命であり、義務なのだろう。

そのことを通じて、私自身の、自分自身の人生の「意味」もわからせてもらえるかもしれない。
亡き母が、私に何かを教えてくれるかもしれない。
きっとそうだ。

今、そんなふうには、思っている。

真面目に、真剣に考えつつ、でも、時間の流れに身をまかせて、毎日を基本的に楽しく、前向きに暮らしていきたい。

生きてるんだから、前向きに!

あ、「生きてるんだから」、じゃないんだ、きっと。

自分の命は、「生かしてもらってる」んだ。

そうだね。