ワープロソフトを独習
1984年の初めに事務所に置かれたパソコン。
しばらくはゲーム機として利用されていたが(笑)、少しは本来の使い方をしてみようか、と思うようになった。
当時いたのは工事の現場事務所だから、編成としては、所長、総務担当の私、女子事務員、あとは現場担当の土木の者ばかり。
やはり、デスクワークが一番多い総務の私がまずおぼえなきゃいけないんだろうな。そして、やがては事務所の者に教えられるようになれれば。そう思った。
ということで、別に支店や所長から指示されたわけではないが、やってみることにした。
当時、現場の総務として結構忙しい身だったが、月初めに前月分の締めが終わると、1日くらいは、通常業務をやらなくてもいいくらいの余裕があった。
たぶん、1984年の5月か6月、決算も終わって一段落した時期だったと思うが、パソコン独習にとりかかった。
以後、月に1回、締め翌日は丸1日パソコンに専念するのが習慣になった。
独習の対象は、ワープロソフトの「松」。
アプリケーションに付属のマニュアルを見ながら、少しずつ操作をおぼえていった。
それまで手書きで作っていた書類を、試みにパソコンで作ってみたりした。
パソコンの独習にはずみがついたのは、労働組合の活動を通してだった。
その年の9月、在籍していた支部の書記長に就任した。書記長は、組合会議の資料など、組合活動上の文書をあれこれ作らなければならない。
これをパソコンでやろうと思い立ったのだった。
仕事の書類をパソコンで作ることは、別に支店や上司から命じられる状況ではなかった。
しかし、組合書記長としての仕事は、自分自身の裁量でできるものだったので、これをパソコンで、と決めたことで、パソコン独習のモチベーションにつながった。
しかし、組合書記長としての仕事は、自分自身の裁量でできるものだったので、これをパソコンで、と決めたことで、パソコン独習のモチベーションにつながった。
書記長は2期(2年)務めたが、この間に、「松」は使いこなせるようになっていた。
ただ、表計算、データベースのソフトについては、結局、千葉の事務所にいる間、手をつけることなく、まったくおぼえぬままに終わった。
「松」のこと
管理工学研究所の「松」は、そのように、私個人にとっては、初めて使えるようになったアプリケーション・ソフトなので、思い出深いものがある。
独習して身につけたから当然かもしれないが、使いやすいワープロソフトだったという記憶がある。
その後、「新松」、「松85」、「松Ver.5」などとバージョンアップしていったものを、順次使っていき、1995年頃まで使っていた。
加えて、「松」は、Windowsに対応する製品を出さなかったので、最終的にはいかんともし難かった。
拡張子が「.BUN」の、「松」で作ったデータは、今は読むことができない。残念だ。
プリンタバッファがなかった
千葉の事務所に設置されたデスクトップパソコンは、本体、ディスプレイ、プリンタを接続した形であったが、プリンタバッファがなかった。
(私自身の実情を言えば、プリンタバッファ、なんてものの存在自体、知る由もなかったのだが)
(私自身の実情を言えば、プリンタバッファ、なんてものの存在自体、知る由もなかったのだが)
プリンタバッファがないとどうなるか。これはむしろ、今どきの人には想像がつかないかもしれない。
「松」で何かの文書を作って、印刷メニューに移り、印刷を始める。
そうすると、印刷が終わるまでは、パソコンの画面は、印刷画面のままで、他の作業ができないのだ。
(プリンタバッファがあれば、印刷データをバッファに送り込んだ後は、パソコン側では次の作業ができる)
そうすると、印刷が終わるまでは、パソコンの画面は、印刷画面のままで、他の作業ができないのだ。
(プリンタバッファがあれば、印刷データをバッファに送り込んだ後は、パソコン側では次の作業ができる)
当時はそれも当たり前だと思っていた。
で、一度失敗したのが、組合の資料作り。
組合の仕事だから、就業時間内にはできない。
仕事が終わったある晩、翌日行われる組合会議の資料を作っていた。
仕事が終わったある晩、翌日行われる組合会議の資料を作っていた。
で、1部印刷して、必要数コピーすればいいものを、その必要部数(何部だったかな、数十部だったと思う)を、直接プリンタから出そうとした。
で、しまった、と思った時にはもう遅かった。
パソコンで次の作業をしなければならなかったのに、その数十部の印刷が終わるまでは、できないことに気がついた。
印刷の止め方がわからなかった。というか、一旦始まったら、止める機能がなかったかもしれない。
当時のプリンタのことだから、印刷の速度も遅い。
結局、延々と動き続けるプリンタを眺めるしかなく、印刷が終わるまで、夜が更ける中、1時間だったか2時間だったか、ずーっと待っていた。
あの時のことは忘れられない。
後年、千葉から本社に転勤したが、その部署には、プリンタバッファがあった。
こんなに便利なものか、と感激したものだ。
こんなに便利なものか、と感激したものだ。