先月のお盆休み、家の中をかたづけていての発掘出土品の一つ。
せっかく見つかったペーパーなので、「若書きアーカイブ」に掲載しておく。
文中、クライバーの指揮ぶりについてかなりの字数を割いている。
当時は、クライバーの映像ソフトがまだ一般に入手できる状態ではなかったので、私にとって「動くクライバー」を見るのはナマのステージであることを別にして、初めてだった。その興奮が、彼の指揮ぶりについて書き残さねば、という気持ちにつながったと記憶する。
当時は、クライバーの映像ソフトがまだ一般に入手できる状態ではなかったので、私にとって「動くクライバー」を見るのはナマのステージであることを別にして、初めてだった。その興奮が、彼の指揮ぶりについて書き残さねば、という気持ちにつながったと記憶する。
また、改めて読み直してみると、文章が冗長である上(今でもか(汗))、学生時代から読んできた音楽批評、特に大木正興氏の文章を意識して書いているなあ、と恥ずかしくなる。
1986年5月17日(土) ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲
モーツァルト 交響曲第33番変ロ長調
ブラームス 交響曲第2番ニ長調
(アンコール)
J.シュトラウス 喜歌劇「こうもり」序曲
J.シュトラウス ポルカ「雷鳴と電光」
モーツァルト 交響曲第33番変ロ長調
ブラームス 交響曲第2番ニ長調
(アンコール)
J.シュトラウス 喜歌劇「こうもり」序曲
J.シュトラウス ポルカ「雷鳴と電光」
思い入れの強いアーティスト(もしくは曲)にナマで初めて接するコンサートは久しぶりで、最近これほど事前の期待が大きかったコンサートもない。
私としては、クライバーの音楽自体についてはレコードで長いこと聴いてきてイメージはできあがっているつもりだったから、それよりも、雑誌でつとにその華麗さが伝えられるクライバーの指揮姿を見ることができる、という点に、ナマのコンサートへの期待をより大きく置いていたが、後者が満たされたのは勿論、前者についても、全ての曲に於て、過去聴いたどのレコードをも凌駕する感銘を受けた、と言ってよく、改めてクライバーという指揮者の凄さを思い知らされたのだった。
まず、クライバーの指揮ぶりについてであるが、最初のウェーバーから、ほれぼれとするその身のこなしにひきこまれてしまった。
伝えられる通り、指揮法の基本的な拍子図形からは全く離れた振り方である。身振りの大きさには非常に幅があり、実に激しく大きい動きで、どうかすると、前の方のヴァイオリン奏者に棒がぶつかるのではないか、と思うくらいなことがあるかと思えば、時には全然指揮をやめてしまうこともある。
しなやかで、身体が音楽を語っている、という点では小澤さんも同じだが、両者の指揮姿には少なからぬ違いがあると思う。小澤さんの指揮は、あくまで知的で計算を経たものであり、非常にスタイリッシュである。あるフレーズで、あるパートを指差したりすることを初めとして、アクションの全てが、単にオケに対する指示にとどまらず、聴衆にわかりやすく音楽を聴かせようという意図に因っているように感じられる。
これに対してクライバーの指揮は、計算(演奏以前の段階での計算や設計はあるかもしれないにしても)を感じさせない、もっと本能的なものである。聴衆を意識した所は全くなく、あくまで自分自身が音楽に対してのめりこみ、溺れこんでいる、という事実がまず最初にあり、その耽溺のいきつくところとして、ああいうアクションが、おそらくは本人が意識してのことでさえなく、否応なしに出てきてしまう、といった風情のものに見える。誰のための指揮か、と言えば、少なくとも聴衆を向いたものではない。ひたすらオケの方を向いた指揮であり、より正確にはオケのためですらなく、自分自身を音楽への集中に駆りたてていくためのものである、と言えるのではないか。
従って、小澤さんと比べると、クライバーの指揮は、聴衆の立場から見ると、普遍性に欠けている点があるとも言える。確かに流麗でありカッコいいのだが、クライバーにしてみれば、聴衆に対して、カッコよく見せるとか、わかりよく聴かせるためのアクションをするとかいったことは、そもそも関心の外であるから、一聴衆として見ていた場合に、アクションが終始一貫するわけではなく、時には全然スタイリッシュでもない、カッコもよくない場面があったり、ひとりよがりなものに見えたりもすることになる。
こういう書き方をすると、いかにも小澤さんの指揮が、外面的効果を狙ったもののようになってしまうが、勿論これはあくまで比較論として、極端な表現をしたまでのことである。むしろ、小澤さんも、どちらかというと、吹き上げてくる楽興の赴くままに音楽をする人であって、タイプとすればクライバーに近いのだが、その上での比較をすれば、小澤さんは、やはり情よりも知というか理の勝った音楽をする人だと思う。
それはともかく、特に初日は、席の位置もあって、ひたすらクライバーを見つめ続けて聴くことになったが、最初のウェーバーの終わり近く、横になぎはらうように指揮棒が一閃したかと思った瞬間、アガーテのアリアのメロディがトゥッティで溢れ出したのにまずぶったまげ、あとは、2日間共、ため息の出るようなその指揮ぶりを、ただただほれぼれと眺めるだけだった。
概して左手はあまり使わない。もっぱら右手の棒で、拍子をとるというよりは、音楽の中身をえぐりだすことだけに没頭するように、各パートを、叩いたり、突き刺したりするように指揮していく。拍の打点はあまり明確でないように思った。ウェーバーの曲の開始など、目を離さずに棒を見ていたのだが、気がついたら既に弦のユニゾンが始まっていて、どこから音が出始めたのか、わからなかった。指揮台に付属した手すりに左手でつかまって、ほとんど聴衆の方に顔を向けんばかりにして指揮する場面も多かった。尚、初日の手すりは少々ぐらぐらしており、指揮者の希望があったのだろう、翌日は別のものに取り替えられていた。
ちょっとの手の動きで、思わぬヴィヴィッドな音が飛び出してくるのに驚かされることもしばしばだったが、単なる拍子とりでなくて、今まさにその指揮者の棒の先から音楽が生まれ出て空間に散り果てていく、といった、指揮と音との密着というか一体感をまざまざと感じさせられたのは、例の4年前の小澤さんと新日フィルのマーラーの2番以来のことだった。
尚、クライバーは、シンフォニーの第3楽章と第4楽章の間をあけずにほぼアタッカの形で扱う、といったことはしないが、各楽章の間は逆にむしろ短めで、聴衆の咳がおさまらない内に振り始める。
次に、演奏について記す。かねてレコードで了解していたクライバーの音楽は、ナマのステージでも勿論その路線上で展開したが、レコードとの最も大きい違いとしてまず指摘しておくべきは、テンポの動きだろう。
レコードではそれほどテンポを動かす人という感じはなく、むしろインテンポでオーソドックスな演奏をする指揮者だと思っていたが、ライヴのせいもあるのか、ベートーヴェンの7番のフィナーレのコーダでの突然の急迫を初めとして、同じ曲、或いは楽章の同じテンポ設定の部分の中でのテンポの変動は、ほとんど恣意を感じさせる限界ぎりぎりに達するくらい、かなり大きかった。レコードに比べればずいぶんとヤマッ気のあるやり方だったといえる。
しかし、ここがクライバーのクライバーたる所以だと思うのだが、彼の演奏には、要するに「音楽の生理」をこれ以上ないくらいしっかりと掴んだ上での「流れ」がある。表現するのが難しいが、私には、クライバーの指揮で聴くと、どの曲もあたかも生き物であり、つまり曲が始まってから終わるまでの生命があり、その時々での生理的な活動や呼吸があるように思えるのである。そして、クライバーは、その「音楽の生理」としか言いようのないものを、他のどの指揮者よりも深くしっかりと掴むことができると感じられる。その結果、彼の演奏は、最初から最後まで一時たりとも途切れることのない、太く大きな水の流れのように進んでいく。その流れの中で、一つの動きは前の動きから必然的に生み出され、その動きはまた、その次の動きにつながっていく、といった具合であって、最初から最後までの全てが、有機的に、因果関係と必然をもって運ばれていく。その結果、聴き手は、極端な言い方をすれば「この曲がこれ以外の演奏のされ方をすることなど考えられない」という思いに捕われることになる。音楽の演奏に「呪縛」される、という表現は、高崎保男氏などがよく使うが、その言い方が多少大仰であるにしても、一時的に聴衆をそうした観念に陥れる一種催眠術的な力は、確かに働く。
話を戻せば、テンポの動きも、そうした流れの中で必然性をもって行われる「音楽の生理」の活動の一つであると言える。テンポの動きは、当然最も目につきやすいから、真っ先に気付くわけだが、それはあくまでクライバーの作り出す音楽の流れの一要素に過ぎないのであって、おそらくは、音色やパート間のバランス等、「音楽の生理」の流れの中では、様々な変化が与えられているのだろうと思う。これは、私自身がもっと鋭敏な耳を持っていれば、受け止めることができるのだろうが。
私としては、クライバーの音楽自体についてはレコードで長いこと聴いてきてイメージはできあがっているつもりだったから、それよりも、雑誌でつとにその華麗さが伝えられるクライバーの指揮姿を見ることができる、という点に、ナマのコンサートへの期待をより大きく置いていたが、後者が満たされたのは勿論、前者についても、全ての曲に於て、過去聴いたどのレコードをも凌駕する感銘を受けた、と言ってよく、改めてクライバーという指揮者の凄さを思い知らされたのだった。
まず、クライバーの指揮ぶりについてであるが、最初のウェーバーから、ほれぼれとするその身のこなしにひきこまれてしまった。
伝えられる通り、指揮法の基本的な拍子図形からは全く離れた振り方である。身振りの大きさには非常に幅があり、実に激しく大きい動きで、どうかすると、前の方のヴァイオリン奏者に棒がぶつかるのではないか、と思うくらいなことがあるかと思えば、時には全然指揮をやめてしまうこともある。
しなやかで、身体が音楽を語っている、という点では小澤さんも同じだが、両者の指揮姿には少なからぬ違いがあると思う。小澤さんの指揮は、あくまで知的で計算を経たものであり、非常にスタイリッシュである。あるフレーズで、あるパートを指差したりすることを初めとして、アクションの全てが、単にオケに対する指示にとどまらず、聴衆にわかりやすく音楽を聴かせようという意図に因っているように感じられる。
これに対してクライバーの指揮は、計算(演奏以前の段階での計算や設計はあるかもしれないにしても)を感じさせない、もっと本能的なものである。聴衆を意識した所は全くなく、あくまで自分自身が音楽に対してのめりこみ、溺れこんでいる、という事実がまず最初にあり、その耽溺のいきつくところとして、ああいうアクションが、おそらくは本人が意識してのことでさえなく、否応なしに出てきてしまう、といった風情のものに見える。誰のための指揮か、と言えば、少なくとも聴衆を向いたものではない。ひたすらオケの方を向いた指揮であり、より正確にはオケのためですらなく、自分自身を音楽への集中に駆りたてていくためのものである、と言えるのではないか。
従って、小澤さんと比べると、クライバーの指揮は、聴衆の立場から見ると、普遍性に欠けている点があるとも言える。確かに流麗でありカッコいいのだが、クライバーにしてみれば、聴衆に対して、カッコよく見せるとか、わかりよく聴かせるためのアクションをするとかいったことは、そもそも関心の外であるから、一聴衆として見ていた場合に、アクションが終始一貫するわけではなく、時には全然スタイリッシュでもない、カッコもよくない場面があったり、ひとりよがりなものに見えたりもすることになる。
こういう書き方をすると、いかにも小澤さんの指揮が、外面的効果を狙ったもののようになってしまうが、勿論これはあくまで比較論として、極端な表現をしたまでのことである。むしろ、小澤さんも、どちらかというと、吹き上げてくる楽興の赴くままに音楽をする人であって、タイプとすればクライバーに近いのだが、その上での比較をすれば、小澤さんは、やはり情よりも知というか理の勝った音楽をする人だと思う。
それはともかく、特に初日は、席の位置もあって、ひたすらクライバーを見つめ続けて聴くことになったが、最初のウェーバーの終わり近く、横になぎはらうように指揮棒が一閃したかと思った瞬間、アガーテのアリアのメロディがトゥッティで溢れ出したのにまずぶったまげ、あとは、2日間共、ため息の出るようなその指揮ぶりを、ただただほれぼれと眺めるだけだった。
概して左手はあまり使わない。もっぱら右手の棒で、拍子をとるというよりは、音楽の中身をえぐりだすことだけに没頭するように、各パートを、叩いたり、突き刺したりするように指揮していく。拍の打点はあまり明確でないように思った。ウェーバーの曲の開始など、目を離さずに棒を見ていたのだが、気がついたら既に弦のユニゾンが始まっていて、どこから音が出始めたのか、わからなかった。指揮台に付属した手すりに左手でつかまって、ほとんど聴衆の方に顔を向けんばかりにして指揮する場面も多かった。尚、初日の手すりは少々ぐらぐらしており、指揮者の希望があったのだろう、翌日は別のものに取り替えられていた。
ちょっとの手の動きで、思わぬヴィヴィッドな音が飛び出してくるのに驚かされることもしばしばだったが、単なる拍子とりでなくて、今まさにその指揮者の棒の先から音楽が生まれ出て空間に散り果てていく、といった、指揮と音との密着というか一体感をまざまざと感じさせられたのは、例の4年前の小澤さんと新日フィルのマーラーの2番以来のことだった。
尚、クライバーは、シンフォニーの第3楽章と第4楽章の間をあけずにほぼアタッカの形で扱う、といったことはしないが、各楽章の間は逆にむしろ短めで、聴衆の咳がおさまらない内に振り始める。
次に、演奏について記す。かねてレコードで了解していたクライバーの音楽は、ナマのステージでも勿論その路線上で展開したが、レコードとの最も大きい違いとしてまず指摘しておくべきは、テンポの動きだろう。
レコードではそれほどテンポを動かす人という感じはなく、むしろインテンポでオーソドックスな演奏をする指揮者だと思っていたが、ライヴのせいもあるのか、ベートーヴェンの7番のフィナーレのコーダでの突然の急迫を初めとして、同じ曲、或いは楽章の同じテンポ設定の部分の中でのテンポの変動は、ほとんど恣意を感じさせる限界ぎりぎりに達するくらい、かなり大きかった。レコードに比べればずいぶんとヤマッ気のあるやり方だったといえる。
しかし、ここがクライバーのクライバーたる所以だと思うのだが、彼の演奏には、要するに「音楽の生理」をこれ以上ないくらいしっかりと掴んだ上での「流れ」がある。表現するのが難しいが、私には、クライバーの指揮で聴くと、どの曲もあたかも生き物であり、つまり曲が始まってから終わるまでの生命があり、その時々での生理的な活動や呼吸があるように思えるのである。そして、クライバーは、その「音楽の生理」としか言いようのないものを、他のどの指揮者よりも深くしっかりと掴むことができると感じられる。その結果、彼の演奏は、最初から最後まで一時たりとも途切れることのない、太く大きな水の流れのように進んでいく。その流れの中で、一つの動きは前の動きから必然的に生み出され、その動きはまた、その次の動きにつながっていく、といった具合であって、最初から最後までの全てが、有機的に、因果関係と必然をもって運ばれていく。その結果、聴き手は、極端な言い方をすれば「この曲がこれ以外の演奏のされ方をすることなど考えられない」という思いに捕われることになる。音楽の演奏に「呪縛」される、という表現は、高崎保男氏などがよく使うが、その言い方が多少大仰であるにしても、一時的に聴衆をそうした観念に陥れる一種催眠術的な力は、確かに働く。
話を戻せば、テンポの動きも、そうした流れの中で必然性をもって行われる「音楽の生理」の活動の一つであると言える。テンポの動きは、当然最も目につきやすいから、真っ先に気付くわけだが、それはあくまでクライバーの作り出す音楽の流れの一要素に過ぎないのであって、おそらくは、音色やパート間のバランス等、「音楽の生理」の流れの中では、様々な変化が与えられているのだろうと思う。これは、私自身がもっと鋭敏な耳を持っていれば、受け止めることができるのだろうが。
(長文のため、続きます)