↑ハゲしく興奮した日経新聞の記事!
大学生活の思い出は数々あるが、友人たちと、あるいは一人で「飯屋で飯を食った」行為というのもその一つである。
今は千葉に住んでいるので、三多摩は遠い。めったに行く機会もないが、それでも時たま行けば、懐かしい国立や小平を歩きたくなる。
学生時代を過ごした街については、誰でもそうだと思う。
約30年もの長い歳月がたてば、すっかり変わってしまったところも多い。一方、まったく変わっていない光景を見つけて、往年の記憶がよみがえるのも嬉しいことだ。
飯屋などは端的にそうで、当時よく食べに入っていた店が今でもまだあったりすると嬉しくなる。
当時の小平で言うと、もうなくなってしまった店が多いが、西武多摩湖線一橋学園駅隣の「戸隠そば」と、住んでいた下宿のすぐ近くの「キッチンこばやし」は、確か今でもある筈だ。
何年か前に、キッチンこばやしには入ったことがある。
店のおじさんおばさんも、昔に比べれば歳をとったが健在で、メニューも当時のまま。
涙が出る思いであった。
また行きたいものだ。
(飯屋から話はそれるが、国立時代、私が住んでいたY荘という2階建てのアパートは今でも当時のまま存在している。特に改築リニューアルした様子もなく、文字通り当時のままで、今時こんな古びたアパートに住む人がいるのかと心配になる)
(更についでに言うと、そのアパートの近くのレコードショップ「アポロ」も当時のままある。昨年入る機会があったが、寡黙で、しゃべると関西なまりが出る店主も健在だった。同じくよく行っていた国立楽器が少し前に店を閉めてしまった。アポロには長く残ってほしいと思う)
さて、飯屋の話に戻る。
「スタ丼」の話である。スタ丼は今では結構有名になったようだ。
サイトもある。
http://www.sutadon.com/index.html
私の、また私の友人たちの学生時代を語る時に、避けては通れない店なのである。
もともとは、国立の富士見通りにある、小さな小さなラーメン屋であった。
当時の我々オケ仲間の生活というと、夜な夜な近くの友人のアパートを行き来して、レコードをかけながらバカ話をして夜更かしする毎日であった。
私のY荘の部屋にも、毎日のように何人かの親しい友人が、夜の10時くらいを過ぎるあたりから集まってきていた。
例えば、1学年下のチェロのSがいつものようにドアをノックする。
招き入れてレコードは何にするかと話しながら選んでかけ、雑談をしていると、1時間くらいして同期のヴァイオリンのMやらホルンのKやらがまたやってくる。
酒を飲むことはほとんどなく、お茶かインスタントコーヒーで過ごした。
今はやめたが、当時は私も喫煙しており、確かほとんど全員が喫煙者だったから、冬など窓を閉めて話し込んでいると、やがて6畳間がもうもうたる煙で充満する。
さすがにこれはたまらんと空気の入れ換えに窓を開ける。とたんに屋外の冷気が入ってきて身を縮める。その冷気の冷たさは昨日のように思い出す。
さて、そんなふうに楽しくもあり無為な時間を過ごして夜中の2時かそこらに、誰かが「腹減ったな」という。
「チャーシューライス食いに行こうぜ」と別の誰かが言う。
「行こう、行こう」と外に出る。店は確か3時まではやっていたのだ。
当時は車を持っている者は仲間内にはあまりおらず、少なくとも私の部屋に集う者は皆自転車か徒歩で来ていた。
で、自転車に乗って、その富士見通りのラーメン屋に行くのであった。
当時の店は、ほんとに狭い店だった。6人も座ればいっぱいになるカウンターに、確かテーブル席が一つあったくらいだったと思う。
メニューはシンプルで、ラーメンが醤油と味噌と塩の3種。あと肉野菜炒めライスと餃子ライス、そして件の「チャーシューライス」くらいであった。
店の名前(「○○軒」とかいう)はなかった。サッポロラーメンという赤い看板と提灯が出ていたように記憶する。
他の客がどうだったかわからないが、我々仲間は、ラーメンを注文することはほとんどなく、もっぱらそのチャーシューライスか、肉野菜炒めライスを食べていた。
店の名前はないのだが、ほとんどチャーシューライスを食べていたので、誘い合って出かける時も「チャーシューライスに行こうぜ」と、食べるものの名で呼んでいたのである。
橋本さんという親父がカウンターの中で一人で店を切り盛りしていた。真冬でもTシャツ1枚で、「今日は蒸すねえ」などと冗談を言っていた。
チャーシューライスとは、楕円形の皿にラーメン用のチャーシューを数枚並べ、そこにもやしを添えたものに醤油(ラーメンのスープに入れるものだったか)をかけまわしたのがメインディッシュ。プラスたくあんを載せた飯と味噌汁。
確か300円だったと思う。野菜炒めライスが350円だっただろうか。
貧乏生活の学生には、そんなものでも非常に美味かった。
食い終わると、じゃあ、と言ってそれぞれのアパート方向に自転車で散って行く。そしてもう朝が近い時間に寝る、という生活であった。懐かしい。
ところで、我々がこの店に出入りを始めた時点ではまだスタ丼はメニューにない。
後年、店をブレイクさせ、今では複数の店舗を持つまでに発展させる原動力となったスタ丼は、私の在学中に新製品としてデビューしたものだ。
それを知っているというのは、私及び友人たちの自慢である。
私が国立で生活したのは76年(昭和51年)4月~78年(昭和53年)3月、3年生と4年生の2年間だから、店に通ったのもその間だ。
だから、たぶん4年生になってからだと思うのだが、店が移転拡張した。
最初通っていた狭い店の近くに、広い(3~4倍にはなっただろうか)店を構えた。
橋本さんだけでなく、従業員も雇った。
そんなある日、新メニューとして、「スタミナ丼」「生姜焼き丼」が登場したのだ。
美味いも美味いし、ボリュームも充分で、若い学生の身にはありがたかった。
今でもそうだが、大盛を頼むと、ラーメンの丼に盛って出してくる(新聞の写真の右の丼)。
さすがに私は一度も試したことはないが、前出のSという後輩はしばしばこれを頼んでは平らげていた。
ほとんどチャーシューライス一本だった、この店での食生活が大きくひろがり、私もよくスタ丼を注文したものだ。
さて、卒業して長い歳月がたつ中、時たま国立を訪れる機会があると、飯時に時間が合えば、この富士見通りの店には行って、店の順調な経営ぶりを確認しては安心していた。
その内、すっかりスタ丼がヒット商品となったらしいことを知った。
6年ほど前、前記のSとの間で、この店の話題になったところ、彼も同じように国立に行っては食っているとのことで、国立の旭通りにも出店していることを教えてくれた。
駅からはこちらの方が近いこともあり、以後は旭通りの店に行くようになっている。
サイトを見ると、今や9つも店を持っているようで、めでたい限りである。
サイトの名前も、店の看板も今や「スタ丼」である。そのスタ丼の出始めを知っているおじさんとしては、やっぱり嬉しい。
反面、今は他のメニューも豊富になったが、僅かなメニューしかなかった頃に世話になったオールドファンとしては、むしろ少々のさみしさを感じたりもする。勝手なものだ。
しかし、今でもメニューのすみっこに、チャーシューライスは残っている。
おそらく今、こんなものを注文する客もいないのだろうが、私にしてみれば、それが実に嬉しい。
何年か前に久しぶりに注文してみた。
当時と変わらぬ味に、往年のあの狭い店と橋本さんを思い出して感慨にひたった。
今年、05年の7月23日の日経新聞夕刊に、スタ丼の記事が大きく載った。
この記事を目にした時には大いに興奮した。
記事によれば、またサイトによれば、我々が世話になった、スタ丼の考案者である橋本さんは、10年前に亡くなったのだそうだ。知らなかった。
おそらく私よりは10歳程度上だったと思う。とすると50前後で亡くなったことになる。
今でも元気で店をやっていてくれたら、昔話の一つもできたのに、悔しいことだ。
ああ、書いていたら、久しぶりに国立へ行きたくなってしまった。
(追 記)
2020年春、家の中をかたづけていたら、スタ丼の記事を載せた新聞が出てきた。
カメラで写した上の写真では記事全体が見えないので、改めてスキャンして下に貼っておく。