11日(土)、東京文化会館で行われた東京二期会の「魔笛」を観に行った。
日 時 2021年9月11日(土) 13:00開場 14:00開演
会 場 東京文化会館大ホール
指 揮 ギエドレ・シュレキーテ
管弦楽 読売日本交響楽団
曲 目 モーツァルト 歌劇「魔笛」
指揮は、当初予定のリオネル・ブランギエ(冒頭のチラシに顔写真あり)の新型コロナウイルス関連の都合で、ギエドレ・シュレキーテに変更。女性指揮者である。
プログラム冊子から。
私の席は2階2列20番。
「魔笛」は、私にとってはいくつかの点で特別なオペラである。
・大学オケに入部してヴィオラを始め、最初に練習した曲の一つが「魔笛」序曲だった。
・大学3年の時、生まれて初めて買ったオペラ全曲のレコードが「魔笛」だった(スウィトナー=ドレスデン国立歌劇場盤。この日、ロビーのCD販売コーナーにも並んでいた)。
・浦安オケに入団して最初の演奏会の前プロが「魔笛」序曲だった。
2016年から始まった「湯の街ふれあい音楽祭 モーツァルト@宇奈月」のオープニングオペラでは、3年目の2018年に「魔笛」を演奏した。
プログラム冊子に、1955年を初回とする過去の「魔笛」の公演記録が掲載されている。
2000年以降は実相寺昭雄氏の演出で上演されてきたが、前回、2015年からは宮本亞門氏の演出に替わり、今回が2回目となるようだ。
その宮本氏の演出を楽しみにして開演を待った。
ステージは客席から観て横長長方形の形で使われるのではなく、雛祭りの菱餅のような形。手前の三角形部分がオケピットの上にせり出している。奥側の三角形部分は壁で囲まれており、そこにプロジェクションマッピングで、映像が映し出される。
序曲が始まると、最初はサラリーマン家庭のリビングの中。
タミーノらしきスーツ姿の男性と、子供たち。子供たちは買ってきてもらったらしいテレビゲームを箱から出して遊び始める。妻らしき女性が出てくるが、男性と何やらもめている様子で、スーツケースを持って出て行ってしまう。
序曲の最後、テレビゲームが映っていた大型のモニター画面に男性が身を投げるように突っ込むと、画面のガラスが割れたようになって、1幕に移る。
スーツの男性はやはりタミーノで、モニター画面から、オペラの世界に飛び込んできた形でスタート。タミーノを追いかける大蛇もプロジェクションマッピングで描かれる。つい笑ってしまう着ぐるみの場合が多いが、それに比べればリアルだ。
以後の場面は、ニューヨークの街の夜、といった絵柄が描かれる。ウエストサイド・ストーリーを想起させる雰囲気だ。
3人の侍女がタミーノにコートを着せる。以後、このコートは着たままになる。
プロジェクションマッピングの利点は、転換が速いことだ。壁をいわばキャンバスにして映し出すものが変わるだけで、現物のセット転換がないので、速い。
またその都度、必要な設定を制約なく自由に映し出せる。
モノスタトスが出てくる場面は、今度は倉庫の中のようになる。
以後も自在な転換を楽しんだ。
しかし、「魔笛」のストーリーのおかしさは、特に実演で観ると気になる。その理由は、ひとえに途中で善悪が逆転するところにある。
タミーノとパパゲーノをしばしば救う笛と鈴って、もとはと言えば夜の女王が持たせたもの。その夜の女王は、オペラの途中で悪役側に転じてしまう。ちょっと苦しいところだ。
前半ではパミーナはザラストロに拉致され捕らえられていることになっているが、これも後半の善悪転換の中では苦しい。ザラストロはミーナを保護していたということになっているが、それにしてはパミーナはそこから脱出しようとしている。モノスタトスの所業から逃れるためという解釈になるだろうか。モノスタトスは結局ザラストロに懲罰を受けることになるから、そのへんが説明の落としどころ?
しかし、ザラストロが聖者なのであれば、パミーナをいじめるようなモノスタトスなんかをそもそも部下にするのがおかしい。
そして何より、夜の女王とパミーナが母と娘であるところが一番難しいところなんだよね。
パミーナはザラストロのところから逃げて母のもとに戻りたい、としているし、夜の女王はパミーナにザラストロを討ちなさい、と命ずる。ここまでなら矛盾はないが、パミーナはタミーノと共にザラストロに帰依?する方向に向かい、試練を乗り越えて結ばれていくのだから、何とも納まりが悪い。
立場上、一番矛盾を抱えるのがパミーナということになる。タミーノは夜の女王にだまされたということもできるが、何しろパミーナは実の娘なのだから。
宮本演出では、終盤、侵入してきた夜の女王や3人の侍女たちが討たれる場面の後、夜の女王だけは滅びなかったという解釈で、最後まで舞台上に存在した。
ザラストロと夜の女王がどういう関係なのか不明だが、完全な敵対関係でないことをほのめかしたようだ。
あ、あとこれは「魔笛」に限らないけど、オペラにありがちな「一目惚れ問題」。
絵姿を見ただけでパミーナに一目惚れするタミーノ。
パミーナにいたっては絵姿さえも見ていないよね。単にあなたを救いに来る男性がいるって話を聞いただけ。
それでいながら、実際に初対面を果たした場面では、もうメロメロに愛し合っている感じ。
いやー、うらやましい(笑)。
幕間は20分の休憩。セットの転換はないからか短い。
さて、物語のことはともかく、これも「魔笛」を観ると思うことだが、とにかく音楽は神品!
珠玉のような名曲が惜しげもなく次々に繰り出されてくるのに翻弄されるばかりだ。
登場人物中で一番魅力があるのはやはりパパゲーノだ。似た役回りとして想起される「ドン・ジョヴァンニ」のレポレロよりもずっと魅力的なキャラクターだ。彼が歌う(言っている)内容は深い。
タミーノは笛で試練を乗り越えるが、夜の女王が復讐を誓うアリアを歌い終わって悪役ポジション決定、の後でなお? と思わざるを得ない。
パパゲーノの鈴も同様。
「魔笛」の矛盾は永遠に解けないのだ。
いつものことだが、パパゲーノとパパゲーナの「パ・パ・パ」には泣かされる。比喩ではない。ほんとに涙が出てきてしまう。
ばかばかしい歌詞、ばかばかしいメロディとも言えるのに。
これはモーツァルトの音楽の「魔法」という他はない。
モーツァルトの音楽が、具体的に理解することができない(あるいは理解する必要のない)、何かの「真実」を伝えてきているのだと思う。
私にはまだそこまでしかわからない。
あと何回「魔笛」を観たらわかるだろうか。
この場面を、タミーノ、パミーナの試練克服が成就した後に持ってきたこと。
これはこのオペラの中での重要なポイントだと思う。
普通、脇役のエピソードをかたづける方が先だよね。
そうではないんだ。
実は、パパゲーノとパパゲーナが主役なのか?
私にまだ理解できない「真実」の鍵はそこにあるのかもしれない。
とにかく、ここから後は、このオペラにとって「付け足し」だと思える。
忍び込んできた悪役が成敗されてのフィナーレ、前記の通り、夜の女王はそこに残っている。パミーナがザラストロのもどでタミーノと結ばれる幸せを、夜の女王は見ている。そこにパミーナが歩み寄る。
ここに夜の女王をめぐる宮本氏の演出意図があるのだろう。
フィナーレの最後、ステージ上は序曲の時のサラリーマン家庭に戻る。タミーノがテレビゲームのモニターから部屋に戻ってきて子供たちと再会、出て行った妻も戻ってきての大団円となる。
場面のこの戻りはなくてもよかったのではないか、と思った。舞台上の動きの変化に目を奪われて、せっかくの大詰めの音楽が上の空になりそうだった。
まあ、もう一度このプロダクションを観る機会があれば、もっと余裕をもって味わえるのだろうが。
歌手はみなすばらしい歌を聴かせてくれた。
特に、ということで言えば、2幕でのパミーナのアリア、そして、ザラストロ、タミーノ、パミーナの三重唱。すばらしい歌唱だった。
色々矛盾を感じつつも、やはり「魔笛」は特別なオペラだ。「ドン・ジョヴァンニ」あるいは「フィガロの結婚」の方が、オペラとしてのできばえはもっと円満だとは思うが、「魔笛」の魅力には抗しがたい無類のものがある。
同じ演出でも、別の演出でもいい、何度でも観たいオペラだ。
宇奈月オペラでは、ローテーション通りであれば、2023年に「魔笛」を演奏することになるだろうか。是非二度目の演奏機会を得たい。
会場を後にして上野駅へ。
公演口の改札が移動した。