naokichiオムニバス

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SNSの「いいね」についてふと思う

今しがた、いつものように旧Twitterを眺めていてふと思ったこと。

 

TwitterFacebookで「いいね」を押す行為には、もう少し慎重になるべきかな、という自省だ。

 

ネットにおける誹謗中傷等は常々問題になっており、相手と対面しない状況で、匿名を隠れ蓑にして行われる形態が卑劣と評価される。

私も常々、嘆かわしいことだと感じている。

 

でも、「いいね」にしても似た面はないか? と思ったのだ。

 

知人ならまだいいのだが、直接知らない人が発言している内容について、気軽に安易に「いいね」を押すことに、批判さるべき誹謗中傷と共通する要素があるのでは? と。

 

知らない人の発言に対して、相手も知らない自分が、匿名の形で「いいね」を表明することに、意味があるのかどうか。

 

匿名だから気軽にできる。

「いいね」を押すことに金もかからない。

 

加えても誹謗中傷と違って、相手に対する賛意や同意を示すポジティブな意思表示なのだから、という部分が問題なのかもしれない、と思う。

企業不祥事などにおいて、「不正のトライアングル」という図式がある。

   動機 例;金がほしい(横領着服の事例)

   機会 例;誰にもチェックされずに金にさわることができる状況

   自己正当化 例;盗むのではないのだ、ちょっと借りて後で返すだけ

これと「いいね」は真逆の世界のようだが、「自己正当化」の要素として、よく考えもせず、「ポジティブ意思表示だから」と安易に「いいね」を押しているところはないだろうか(繰り返しますが、あくまで自省としてです)。

 

誹謗中傷の場合、その卑劣さを批判する視点として、「相手が目の前にいても、それを言えるか」がある。

「いいね」についても実はその要素がないか? と思う。

その人が目の前にいたとして、「ああ、いい意見ですね」「私も賛成です」と言えるのか。言うならば、そこから議論が深まり、意見交換して、本当にその賛意が揺るがないものであることが望ましい。

 

超ネガティブな誹謗中傷と、「いいね」は、方向が正反対だが、それが繰り広げられるネットの場の特性によって、共通点はあるのではないか、とのふとした気づきである。

 

もっとも、旧TwitterFacebookの場合、相手の投稿が短文であることが多い。そこで書かれた内容だけでは相手方の思想のすべてをくみとれない面もあるわけで、そうした一定の限界の中で「いいね」を押すことに、どこまで責任を感じなければならないのか、という論点はあるだろう。

SNSとはそもそもそういう場であり、そこでのお約束としての「いいね」なのだ、と。

 

しかし少なくとも、単に「いいね」を押すだけなのか、何らかのコメントやリプライを添えて自分の意思を説明するのか、というレベルの使い分けは少し意識するようにしたいと思う。

 

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