naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

当たり前なのか当たり前でないのか

おとといの竜巻。

その前からたびたび報じられる、車の暴走での事故。

昨年来の地震の恐怖ももちろん。

「人生、いつ何が起きるかわからないものだ」。そう思わされる。月並みな発想だが。

たった今まで、そんなことが起きるとは思っていなかっただろう、それなのに、命を落とすことがあるのだ。

今日、無事に1日が終わりつつあるが、明日の今頃、同じように無事でいられるかどうかは、本当はわからないんだよね。

無事な日が続いていくことは、当たり前だと思いたいが、こういうことが続くと、決して当たり前でないのかもしれない、とも思えてくる。

怖い。

「生きている」のではない。「生かされている」のだ。そう思うことがある。

そういう感覚の中には、どこか、自分の力、自分の意思でないものに支えられて、無事な今日があったのだ、という意識がある。

ただ、それが、例えば「神の意思」によるものだとすれば、その「神の意思」は万人に平等でない、とも考えてしまう事実が、現実のこの世にはある。

(宗教(と政治)について、このブログではふれないことを基本にしているので、これ以上は立ち入らないが)

別の表現をしてみるなら、とりあえず、今、自分は「命を得ている」ということか?

明日には失うかもしれない命を、今は得ている、と?

あれこれ考えてみても、「怖い」という思いからは離れきれないなあ。

なるようにしかならない、自分の力、意思ではコントロールできないものがあるとしたら・・・。

結局、今、自分でできることは、「命を得ている今」への感謝。

それから、できるだけ、みんなも同じであることを願う気持ち。かな?

明日も、どうかみんなが無事で、いい1日でありますように。


   しあわせですか しあわせですかあなた今
   何よりそれが何より一番気がかり
   みんなみんなしあわせになれたらいいのに
   悲しみなんてすべてなくなればいいのに

      ~ さだまさし 「しあわせについて」