おとといの竜巻。
その前からたびたび報じられる、車の暴走での事故。
昨年来の地震の恐怖ももちろん。
「人生、いつ何が起きるかわからないものだ」。そう思わされる。月並みな発想だが。
たった今まで、そんなことが起きるとは思っていなかっただろう、それなのに、命を落とすことがあるのだ。
今日、無事に1日が終わりつつあるが、明日の今頃、同じように無事でいられるかどうかは、本当はわからないんだよね。
無事な日が続いていくことは、当たり前だと思いたいが、こういうことが続くと、決して当たり前でないのかもしれない、とも思えてくる。
怖い。
「生きている」のではない。「生かされている」のだ。そう思うことがある。
そういう感覚の中には、どこか、自分の力、自分の意思でないものに支えられて、無事な今日があったのだ、という意識がある。
ただ、それが、例えば「神の意思」によるものだとすれば、その「神の意思」は万人に平等でない、とも考えてしまう事実が、現実のこの世にはある。
(宗教(と政治)について、このブログではふれないことを基本にしているので、これ以上は立ち入らないが)
別の表現をしてみるなら、とりあえず、今、自分は「命を得ている」ということか?
明日には失うかもしれない命を、今は得ている、と?
あれこれ考えてみても、「怖い」という思いからは離れきれないなあ。
なるようにしかならない、自分の力、意思ではコントロールできないものがあるとしたら・・・。
結局、今、自分でできることは、「命を得ている今」への感謝。
それから、できるだけ、みんなも同じであることを願う気持ち。かな?
明日も、どうかみんなが無事で、いい1日でありますように。
しあわせですか しあわせですかあなた今
何よりそれが何より一番気がかり
みんなみんなしあわせになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに
何よりそれが何より一番気がかり
みんなみんなしあわせになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに
~ さだまさし 「しあわせについて」