naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

どこかおかしいのかもしれない~インターネット

ちょっと前の話になるが、ネット上に「朝青龍を殺す」という書き込みがなされて騒ぎになった。

また、つい先日は、タレントのブログが、誹謗中傷の書き込みで炎上し、こちらは、書き込んだ人間が逮捕された。

これらの事件で感じるのは、「ネット上の書き込み」は、「悪事を働くバリア」という点で、他の悪事に比べて、明らかに低いということだ。

昔、何かの脅迫状を送りつけると言う時は、新聞や雑誌の字を切り抜いて貼って、筆跡がわからないようにしたものだ(って、経験があるわけじゃないけど)。
それなりに手間暇がかかる作業だし、指紋がつかないように気を遣ったり、少なくとも表に出て、ポストに投函する、という行為がある。
つまり、ある程度の決意とか意思がないと、そこまではやらない、というものだったんじゃないだろうか。

あるいは、報道機関に犯行予告の声明をするにしても、例えば電話をする、という行動をとるわけだから、人としゃべらなければならない、相手に肉声を聞かせなければならない。それなりにドキドキしながらのことだっただろう。

ところが、ネット上の書き込み、というのは、これはもう簡単、簡単。
今、この記事を書いているように、パソコンの前に座ってキーボードを打って、あとはマウスをクリックすればできてしまうわけだ。
あるいは、ケータイのボタンを押して入力して、送信。

自分の筆跡も、肉声も表に出すことなく、悪事を働くことができるのだ。
それも、まったく匿名で。
(もっとも、上記タレントブログ炎上の事件は、匿名とは言っても、書き込みの主を特定することができたから、逮捕に至ったのだが)

私がつくづく思ったのは、家から一歩も出ずに、パソコンの前に座っているだけで、そして、作業としても、自分の指を動かして、チョンとクリックするだけで、殺人予告でも何でもできてしまう、バリアの低さだ。

古来、犯罪って、犯す側にとっても、結構葛藤やら決心が必要だっただろうに、この手の犯罪というのは、行為自体は、恋人に愛を語るメールを送るのと、まったくおんなじなのだ。

話は突然変わるが、インターネットというものが普及したことで、公私にわたる情報収集は、信じられないほど便利になった。

仕事の情報を集める、という時、少し前までは、辞書をひいたり、書店に行って関連書籍を買ったり、図書館に行って文献をさがしたり、というのが当たり前だった。
しかし、今は、上に書いたのと同じく、自分のデスクに座ったままで、一歩も動かなくても、信頼度が100%完璧ではないかもしれないにせよ、量としては相当程度の情報を、パソコンの画面に呼び出すことが可能だ。

あるいは、歩いていて、電車の中で、何かの情報を見かけた時も、以前なら手元にメモして書き留めておかないといけなかったが、今なら、後でグーグル検索すればいいや、で終わりだ。
端的な話、インターネットの初期だったら、必要なサイトのURLをメモする必要があったが、今はそれ自体が不要だ。

犯罪と、真面目な情報収集とは、両極端な話だが、共通するものはあると感じる。

要するに、「必要な成果を得るためにはらう努力、エネルギー」の激減だ。

「便利になってよかったねえ」と言ってしまえば、それまでだし、実際、ネットの恩恵を受けない日は、今や1日たりともないのだが。

で、さらに思う。

ブログというものについて。

少し以前、電子メールのマナーとして、あんまり自分の気持ちがあらわなメールをやたらと人に送りつけるものではない、とか、長文のメールは避けるべきだ、とか、よく言われた。
メールというものは、送りつけられたら読まなければならないものなので、受け手にストレスを与えるから、と。

自分自身がどうかと言うと、ブログを始める前は、自分の意見や気持ちの表明はメールを中心にしていたので、もちろん親しい人に限定してはいたものの、受け手にはずいぶん迷惑をかけた場合もある。

しかし、このブログを開設し、さらにその後、mixiに登録したことで、自分自身の感覚はずいぶん変わった。

「あなたに読んでほしい」と送るメールでなく、言いたいことを、とりあえずはそこに書き込んで開示できる場が手に入った、ということだ。

このことは、同じデジタルツールであっても、相当質的な違いがある。

少なくとも、一方的なメールで人に迷惑をかけずに済むようにはなった(長文メールは相変わらずだが)のだが、こんなことも考える。

ブログやSNS上に、文章や写真や映像や音声など、何かしらの情報を発信する行為。
「一個人が、世界中に情報発信できる」ことが、インターネットのすばらしさだと、よく言われる。
実際それをさせてもらっている身として、そのことを否定しようもないのだが、しかし、とちょっと思う。

あまりに簡単すぎないか、と。

例えば、小説でもエッセイでも論文でも何でもいいが、自分の書いた原稿を、不特定多数の人に読んでもらおうと思ったら、少し前まではせいぜい自費出版。書店に並ぶ本を出すなんてことはとても考えられなかった。

それは、活字での情報発信の方法が、印刷物というメディアしかなかったからだ。

しかし今は、インターネットというまったく別のツールにおいて、一個人が簡単に情報発信できるようになった。

それはいいことでもあるのだが、やはり考えねばならない面もあるように思う。

発信される情報の質を問われることがない、ということだ。このブログもそうだが、何の推敲もされていない文章、思いつきでその時々に書き散らかす愚にも付かない文章、内容に誤りや思い込みがある文章であっても、世に出すことができる。

それが何故かと言うと、「タダでできる」からだ。

書店に置かれる本を出すのは、それは大変なことだ。出版社にとって、商売になる本であるかどうかは重要なことだから、あるレベルに達した内容でなければ、出版はされない。
自費出版の場合であっても、資金を投じること自体に、ある決意が必要だし、せっかく金をかけて出すのだから、と内容も練るだろう。

ブログやSNSについても、そのことに金がかかるなら(記事1本アップするのに500円とか)だったら、どこかで自己規制が働くはずだ。
しかし、多くのブロガーやSNS利用者は、定額制のネット接続をしているだろう。個々の情報発信自体に金をかけてはいないと思う。
(このブログ、これだけの本数の記事や写真を載せていながら、その場所代をYahooに無料で提供してもらっているわけだが、それ自体考えられないことだ)

ひとりごと、つぶやきに近いようなレベルのものであっても、簡単に開示できてしまう状況が、いいことなのかどうか。難しい問題だ。

それを助長しているのが、一つには、匿名でできること。
実名でなければ情報発信できないとすれば、やはり、誰か知った人が読んだら、というフィルタはかかる。
(ちなみに、私はこのブログの存在は、プライベートではオープンにしているが、会社では伏せている)

そして、もう一つは、読み手を特定していないこと。
メールは、基本的に読み手を特定して発信するが、ブログやSNSの場合は、不特定の相手が読者だ。
しかも、発信、発信と言っているが、メールの送信とは本質的に異なり、道ばたの看板や掲示板みたいなもので、読み手を待つ形だ。

結局、この2点が、発する情報のレベルを不問にする。違う言い方をすれば、「責任を持たなくてもいい」世界なのだ。
私自身、そういう感覚を時々自覚する。
しょうもない文章だな、と思いつつも載せてしまうのは、かつてのメールのように、誰かに読ませようというアクションではないからだ。
「自分はここに載せただけであって、それを読むかどうかは、見に来た人の勝手。読みたくなければ、あるいはくだらないと思えば、飛ばせばいいんだから」という、エクスキューズに逃げ込めるのだ。
「読んでくれと言っているわけじゃないんだし」という感覚にさえなることがある。

タダでできること。
簡単にできること。
許可なくできること。
読み手の評価から逃避しうる場であること。
それが、書くことの精度や責任を低める作用につながる状況がある。

冒頭に書いた、犯罪云々の話と、どこか共通する要素はあると思うのだ。

何度か書いているが、ブログを始めたことで、多くの人と知り合うことができ、他では得られぬ喜びがある。
それは事実だが、ブログという世界に、生活の中の少なくない時間を使っていることもまた事実。

便利であり、嬉しくはあっても、その使い方については、絶えず自分でよく考え、ふりかえりながらやっていかねば、と思う。

話のついでにもっと大きなことを言えば、経済、環境問題。

少し前に、Googleで、情報を二つ検索すると、やかんでお湯を沸かせるだけの二酸化炭素を排出するとかいうニュースがあった。
Googleは反論したということだが。

その真偽はともかくとして、インターネットの普及で、全世界のサーバーの働きぶりは、おそらく10年前と比べたらケタ違いのものになっているだろう。
全世界の電子メールの相当数が迷惑メールで、これがサーバーに大きな負担をかけていると聞いたこともある。

便利にはなった。

しかし、多くの人が気軽にネット利用するようになったことで、環境に何かの影響を与えていないのか。
あるいは、我々一個人が、何でもかんでもネットにタダで情報開示していけることが、経済の仕組みとして、何かおかしくはないのか。

野口悠紀雄氏だったらどうおっしゃるか、ご意見をうかがってみたい。

便利だったり嬉しかったりすることで、日頃忘れてはいるが、よくよく考えてみれば、ついこの間までは「ありえなかった」ことがフツーに実現していて、それにともすれば溺れてしまっているところはないのか。
たまには考える必要があるんじゃないか、と思ったりしたのだった。