naokichiオムニバス

68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

小澤(征爾)さん逝去<3>

生のステージ

 

初めて行った小澤さんの演奏会は高校の時。音楽教師をしていた母方の伯母に誘われて、千葉県文化会館に出かけた。オケは日本フィル。確か、解散を目前にした時期だったと思う。
開演前に、伯母が「ありがたいもんだねえ。世界の巨匠になった小澤征爾の演奏会をこうやって(千葉で)聴けるんだから」というようなことを言った。これから出てくる小澤征爾が「世界の巨匠」なんだ、と思ったものだ。
曲目はベルリオーズの「ロメオとジュリエット」だった。この曲はレコードも持っておらず、まったく聴いたことがない状態。学校の図書室で名曲解説全集みたいな本を借りて読んだくらいで臨んだが、演奏については小澤さんの指揮ぶりも含めてよくおぼえていない。

 

大学時代、オケの後輩であるS氏と一緒に、「オーケストラがやって来た」の公開収録に出かけたことがあった。あれは立川だっただろうか。
客席に座っていると、S氏が「小澤征爾がいる」と言ったので見たら、すぐ近くに小澤さんがいた。高校生くらいの男の子が寄ってきてサインを求めたが、「うん、後でね」とあしらっていた。
この日、小澤さんはステージに上がらなかったと思う。

 

これと前後して、小澤さんがサンフランシスコ交響楽団と来日公演を行ったのが1975年。2年生の時だった。学内に何故かポスターが貼ってあったような記憶がある。少し前のベームウィーン・フィルの来日公演には行ったが、それでお金もなかったのだったか、サンフランシスコの方にはあまり行こうと思わなかった。
さらに、ボストン響との初めての来日公演が1978年。卒業目前の時期でもあり、これにも行かなかった。

 

就職した後、小澤さんが新日本フィルを振る演奏会に足を運ぶようになった。1981年の確か4月、定期公演の一環として、アルゲリッチソリストに呼んでのシューマンのコンチェルトとマーラーの6番がプログラムに組まれ、どうしても行きたいと思い、他の指揮者の公演も含むシーズンシートを買い求めた。マーラーもよかったが、アルゲリッチシューマンはさらに印象に残っている。

 

この時期、一番鮮烈な印象を受けたのが、1982年5月の、新日本フィル100回記念定期演奏会だった。曲目はマーラーの2番。高2だった10年前、1972年にはよく知らなかった曲だが、この時はレコードでもだいぶ聴き込んでいたので、存分に味わえた。
2楽章で、小澤さんの指揮棒の先端から音楽がわき出ているような感覚をおぼえた。もちろん音を出しているのはステージ上の大編成のオーケストラなのだが、指揮者の指揮棒がその音を出させているのだ、と実感させられたのだった。小澤さんの指揮の魔力を強く感じさせられた演奏だった。小澤さんの指揮姿をほれぼれとして見た。フィナーレの終わり近く、ファーストヴァイオリンの高い音がCからDに変わるところで左を向いて突きつけるように指さした動作などは今もっておぼえている。
合唱が終わった後のテンポが速いことに驚きつつ、ベートーヴェンの「第九」を思えばこれもありなのかもしれない、と思ったものだった。

 

小澤さんの指揮姿について言うと、私個人は、この演奏会を経験したことで、指揮棒を持っての指揮が好きだった。1998年の長野オリンピック開会式の「第九」では指揮棒を持っており、2002年のウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートでは持っていなかったので、世紀が変わるあたりのタイミングで持たなくなったのだろう。
棒を使わない小澤さんの指揮は、何かが足りない気がして、以後、残念に思ってきたところがある。

(これは、あくまで客席から、あるいはテレビ画面で観た場合のかっこよさ、見栄えの観点から言っているに過ぎない。単なるミーハーとしての見方である。音楽実務としての「指揮」の本質、オーケストラプレーヤーから見た場合に、指揮棒を持つ持たないによって、小澤さんの指揮そのものの受け取られ方がどう違うのかは、私などにはまったくわからない)

 

1980年代、小澤さんは新日本フィルマーラーをシリーズ的に振っており、上述の6番、2番の他にも、3番、嘆きの歌、9番(これは千葉で)、7番を聴いている。

 

ボストン響との来日公演は、1981年、1986年に聴きに行った。
1981年はボストン響100周年の年。ヴェーベルン管弦楽のための5つの小品(1回演奏してから全部をもう1回演奏した)、シューベルトの「未完成」、バルトーク管弦楽のための協奏曲を聴いた。
1986年は2回。マーラーの3番を東京文化会館で、ラヴェルマ・メール・ロワブラームスの1番を昭和女子大学人見記念講堂で、いずれも妻と聴いた。マーラーの時は、出待ちをして小澤さんと伊原直子さんにサインをもらった。

 

この前後だったと思うが、人見記念講堂新日本フィルとの「第九」を妻と聴きに行ったら、小澤さんの体調不良でキャンセルとなっていて、がっかりしながら帰ったことがあった。
小澤さんは新日本フィルとは毎年「第九」を演奏していたが、それまで行く機会がなかったので、ニュー・フィルハーモニアとのレコードは学生時代から愛聴してきたこともあり、一度生で聴いておきたいと思って出かけたのだった。しかしそれ以降、結局チャンスがないままで終わってしまった。

 

松本のフェスティバルについては、発売された録音や映像はあれこれ買い求めたが、現地に足を運ぶチャンスはとうとうなかった。
ただ、2000年にサイトウ・キネン・オーケストラが東京で公演を行った時は、確か正月三が日のことだったが、めったにないことだからと出かけてマーラーの2番を聴いた(ライブ録音がリリースされた演奏会)。サイトウ・キネンの生演奏はこの時だけだった。

 

サイトウ・キネンに関連して言えば、その母体となった「桐朋学園メモリアル・オーケストラ」が、1984年9月、齋藤秀雄没後10年を機に初めて演奏会を行った時、テレビでそのドキュメントが放映された。確か日曜日の午後、1時間くらいの番組だったと思う。当時、現場事務所勤務時代で、宿舎の自室のテレビで観た。
小澤さんが、インタビューで、日頃別々のところで演奏活動をしているメンバーが初めて集まったが、齋藤先生の教えが共通して生きているのに感激したというようなことを、涙ぐみながら語っていたのをおぼえている。

 

(水戸室内管弦楽団も、一度は聴きたいと思いつつ、これも水戸が本拠地ということで足を運ぶ機会を逸した。水戸芸術館自体にもまだ行ったことがない)

 

印象に残っている演奏会として、1995年、小澤さんの還暦記念の演奏会がある。サントリーホールだった。
色々な曲が演奏され、還暦お祝いのメッセージなども多数あり、すごく長い演奏会だった。終演は23時をまわったのではなかったが。
小澤さんはずっと客席にいたが、プログラム最後のベートーヴェンの合唱幻想曲で、ステージに上がって指揮した。ピアノはピーター・ゼルキンだった。
この演奏を聴いて、私はこの有名でない曲をいたく気に入り、以後、CDでは好んで聴くようになった。ルドルフ・ゼルキンと小澤さん、ルドルフ・ゼルキンバーンスタインポリーニアバド
20年後、聴きには行けなかったが、80歳記念の演奏会でも合唱幻想曲が演奏されたと聞いた。小澤さんにとって何か特別な曲だったのだろう。
私としても、この曲に出会わせてくれた、という点で、小澤さんには感謝している。

 

2000年代以降、小澤さんの演奏会の記憶はあまりない。
特に、病気をされてからは、公演と言えば松本が中心になった印象があり、生の演奏会に行く機会は減ったと思う。

 

「音楽塾」のオペラ公演には2回行った。2015年のラヴェル「子どもと魔法」と、2019年のビゼーカルメン」。
ラヴェルの時は、ベートーヴェンの2番との組み合わせだったが、小澤さんはラヴェルだけを振った(ベートーヴェンはシュトゥッツマンが指揮)。
カルメン」は妻と京都で聴いたが、この時は小澤さんは1幕への前奏曲だけを振り、以後はアルミンクが指揮した。
私が小澤さんの生演奏を聴いたのはこれが最後となった。