小澤さんについては、数えきれない思い出がある。そのへんを書きとめておきたい。
「小沢征爾」との出会い
「小沢征爾」という名前を知ったのは、たぶん小学生の頃。1966年、あるいは1967年くらいだっただろうか。
家の近くにある父の実家に遊びに行くと、いつも女性週刊誌が置いてある。それを読んでいたら、しきりと入江美樹、小沢征爾、という名前が出てくる。
毎週載っていたかどうかは定かでないが、その女性週刊誌で関心を持って読んでいたグループサウンズなどの芸能記事のかたわら、まったく知らなかった入江、小沢の名前をおぼえてしまったのだから、ある程度頻繁だったのだろう。
記事の詳細はおぼえていないものの、おそらく、女性週刊誌としてのターゲットは「入江美樹の結婚」であって、その相手が著名な指揮者だというところにニュースバリューがあったのだろう。
以後、小澤征爾は私の視野から去る。
私のアイドル
1971年、高校1年生の時、思い立ってクラシック音楽を聴くようになり、「レコード芸術」を読み始めたことで「小澤征爾」と再会する。
当時、小澤さんは既にEMIなどからレコードを出しており、「レコ芸」の広告でも見かけて、日本人指揮者なのにすごい、と思ったりした。
1972年は小澤さんについての動きが色々あった年だ。
まず、ボストン交響楽団の音楽監督に就任することが決まった。このことは新聞の夕刊に載ったと記憶するが、母がその記事を見ながら「大したもんだねえ」と言ったのが印象的だった。当時の私はボストン響の音楽監督というのがどういうポジションなのか(アメリカのビッグ5の1つ、とか)、まったく知らなかったが、母が言うのだからすごいことなんだ、と受け止めた(その母とてクラシックに詳しいわけでは全くなかったので、どこまでわかっていたか)。
同年4月、日本フィル解散危機のさなかにあって、日本芸術院賞を受賞した小澤さんが、授賞式で天皇陛下(昭和天皇)にその件を訴えた「天皇直訴事件」。これも新聞に大きく報じられた。
そして6月、日本フィルが解散することになって最後の演奏会、小澤さんが指揮した伝説的なマーラーの2番。ちょうどマーラーという作曲家に興味を持ち始めた頃で、FMで放送されたこの演奏会を録音したものだった。
この頃から、小澤さんのレコード録音は活発になり、EMI、ドイツ・グラモフォン、後にはPHILIPSからも、続々と新譜がリリースされた。
パリ管との「火の鳥」が音楽之友社のレコード・アカデミー賞を受賞したこと。また、カラヤンなどで見慣れていた、あのグラモフォンの黄色いエンブレムのジャケットに、小澤さんの写真を見て(幻想交響曲など)感激したこと。
日本人指揮者が、カラヤンやベームと肩を並べるように同じレーベルでレコードを出し、「レコ芸」の月評や広告に載る。そのことだけで、小澤征爾は、クラシック聴き始めの私にとって、バーンスタインと並ぶアイドルになった。
つまりミーハー意識から小澤ファンになったのが実際のところだが、幸いにも小澤さんは客観的にも実績を積み重ねていき、得難い音楽を聴かせてくれるようになる。