今日9日(土)、用事があって千葉駅付近へ。
三越や旧そごう、そごうなどをまわった。
道中、中央2丁目、3丁目、4丁目を歩く場面があり、懐かしさを感じる一方、その後の変貌ぶりをつくづく感じさせられた。
何故懐かしいかと言うと・・・。
1983年から87年まで、蘇我にある現場事務所に勤務していた。年齢で言うと、28歳から31歳。
その内、最初の2年は独身時代だったので、プレハブ建て現場事務所の2階の6畳間に住んでいた。
当時の生活習慣で、土曜日の夕方、仕事がかたづくと、事務所のそばのバス停から千葉駅行きのバスに乗り、末広街道を走って街中へ遊びに行くのが常だった。
中央4丁目のバス停で下りると、中央3丁目の交差点。
この角に、当時は新星堂があった。
まず、ここでレコードをあれこれ物色する。
向かい側には、セントラルプラザという商業施設があった(そのセントラルプラザは、さらに昔は奈良屋というデパートだったと記憶する)。
ここにもレコード店や書店があったので、そこもぶらぶらまわる。
セントラルプラザの並びには、十字屋(後にショッカーという名前になった)というデパートもあった。ここで、衣料品を買ったりしたこともあった。
そして、中央2丁目、中央公園の手前まで来ると、PARCO。
このPARCOは、今でもある。
このPARCOは、今でもある。
PARCOの隣、中央公園前の交差点角には、四谷学院があるが、ここは、当時は住友銀行千葉支店があった。
私がいた現場事務所の取引銀行はこの店舗だった。総務担当として、しばしばこの銀行に来ていたが、飯場暮らし、独身の私が、若い女性と接することができる貴重な場でもあった。
私がいた現場事務所の取引銀行はこの店舗だった。総務担当として、しばしばこの銀行に来ていたが、飯場暮らし、独身の私が、若い女性と接することができる貴重な場でもあった。
そして、そうした、レコード店、書店めぐりの合間に、セントラルプラザかPARCOのレストラン街で夕食をとる。
その後、またバスに乗って事務所に戻り、自室で「さだまさしのセイ!ヤング」を聴いた後、「オールナイトフジ」を観て、朝方寝る、というのが、その頃の土曜日の行動だった。
(「オールナイトフジ」、麻生祐未が司会してたよ~)
(「オールナイトフジ」、麻生祐未が司会してたよ~)
中央エリアから事務所に戻るバスに乗るのは、中央4丁目のバス停から。夕方来て下りたバス停の向かい側だ。
バス停のところに、川合洋服店というテーラーがある。
帰りのバスを待つのは確か20時か21時頃だったと思うが、その時間でもまだ店は営業していて、店内の明るい灯りを背中にバスを待っていた記憶は今でも鮮烈だ。
帰りのバスを待つのは確か20時か21時頃だったと思うが、その時間でもまだ店は営業していて、店内の明るい灯りを背中にバスを待っていた記憶は今でも鮮烈だ。
懐かしさのあまり、中央2丁目でバスを下りて、4丁目まで戻った次第。
川合洋服店の前まで行ってみた。
路上に吊り下がっている看板は、おそらく当時のままではないだろうか。
スーツなどがいくつも飾られていたショーウィンドウは、今はなくなっているが、中をのぞいてみると、まだ商売は続けているようで、嬉しかった。
路上に吊り下がっている看板は、おそらく当時のままではないだろうか。
スーツなどがいくつも飾られていたショーウィンドウは、今はなくなっているが、中をのぞいてみると、まだ商売は続けているようで、嬉しかった。
もう30年経つんだなあ。
上に書いてきたように、PARCOを除いて、当時出入りしていた店やビルの多くは、なくなってしまった。
今日は、久しぶりにそんな、昔の「土曜ナイトコース」をぶらぶらと歩いて、懐かしさの一方、30年も経てば、色々変わってしまうものだ、と実感した。
そんな中、PARCOのように変わらない場所が残っているのは、私には嬉しい。
私が高校の頃から、この中央エリアは、千葉の商業の中心地だった。
しかし、現在は、このエリアは斜陽の一途をたどり、昔の面影はない。
PARCOも苦戦していると聞く。
(ついでに言えば、隣接する栄町も、昔は歓楽街として全国的に名を馳せたものだが、今はずいぶんさみしくなった)
しかし、現在は、このエリアは斜陽の一途をたどり、昔の面影はない。
PARCOも苦戦していると聞く。
(ついでに言えば、隣接する栄町も、昔は歓楽街として全国的に名を馳せたものだが、今はずいぶんさみしくなった)
一応、千葉駅前にはそごうがあり、少し離れたところに三越がある。しかし、中央エリアに比べればましだということであって、実は、そのそごうや三越をひっくるめた千葉駅周辺そのものが、千葉県内の商業面では、トップの地位ではなくなっている(海浜幕張や、船橋などの後塵を拝している状況)と思う。
木更津の田舎者にとっては、「千葉」というのはあこがれの街であり、夏休みなどに親に連れられて千葉に行くのは、大変なイベントだったものだ。
直接間接に半世紀近く千葉を見ている者としては、その盛衰に小さくない感慨がある。