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68歳、ヴィオラ弾き。ビール大好き。毎日元気。

1969年ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国大会のアーティストたちとの出会い

前の記事で、従兄が撮影した1969年のヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト東北大会の写真を紹介した。

 

   ジ・オフ・コース1969年の写真
      https://naokichivla.hatenablog.com/entry/2021/08/22/083128

 

東北大会を勝ち抜いて全国大会に出場したジ・オフ・コース(以下「オフコース」に統一)は2位。

優勝したのは赤い鳥だった。赤い鳥が練習しているのを見て、小田(和正)さんはこのグループには勝てない、と思ったと伝えられる。

またこの時、九州代表のザ・フォーシンガーズには財津(和夫)さんがいて、後にチューリップを結成する。

 

つまり、この年のコンテストは、赤い鳥、オフコース、チューリップという、後のビッグアーティストを生んだわけだ。

 

ところで、同年のコンテストが輩出したこれらのアーティストのデビュー後の楽曲を私が知ったプロセスには、少なからず違いがある。

 

最初に視野に入ってきたのは赤い鳥だったと記憶する。

 

何かの歌本で、「誰のために」(1970年)や「竹田の子守歌」(1971年)の楽譜を見た。中学生の頃だ。

赤い鳥をテレビで観た記憶はないが、たぶんラジオでこれらの曲は耳にしたと思う。以後リリースされた「忘れていた朝」や「河」も同様だ。

 

翼をください」(1971年)は、私の高校時代(1971年入学)は、文化祭のクラス対抗合唱コンサートでは、いくつものクラスが歌う定番曲となった。「紙風船」(1973年)もそうだったと記憶する。

 

そんなことで、知っている曲が多かったので、1974年、大学入学して間もなく、2枚組のベストアルバムを購入した。

 

これとほぼラップした時期に、チューリップの楽曲も周囲で聴かれるようになった。

 

チューリップのデビューは1971年。「私の小さな人生」だが、その後の「魔法の黄色い靴」(1972年)、「一人の部屋」(1972年)も含めて、聴いた記憶がない。

私がチューリップを知ったのは、「心の旅」(1973年)だった。高校3年、受験生の時である。

 

チューリップは歌番組によく出ていたし、次々に新曲をリリースしていたので、彼らの曲は目と耳から入ってきた。その入ってくる力は、赤い鳥とは比較にならなかった。

 

「夏色のおもいで」(1973年)、「銀の指環」(1974年)。受験勉強が厳しさを増す中、聴いたものだ。

 

アルバムやシングルを買って部屋で聴くようになったのは案外遅くて、1976年、大学3年の時だった。これは、レコードで聴かなくてもテレビで観ることができたからだと思う。

初めて買ったアルバムは「日本」だった。そして「TAKE OFF(離陸)」、「ライヴ!! アクト チューリップ」と続く。

 

これらに比べると、オフコースが私の視野に入ってくるのはずっと遅かった。

 

正確には存在は知っていたし、ラジオなどで彼らの歌が流れるのを聴いたことはあっただろうが、意識をもって楽曲を聴く機会がなかった、ということだ。

 

1970年のデビュー曲、「群衆の中で」の存在は早々と知っていた。中学3年の時である。

当時ピアノのレッスンに通っていた楽器店には、1曲紙1枚のギターピースが売られていて、目についた曲を買い求める習慣があったが、ある時「群衆の中で」のピースも買ったのだった。たぶん、「ジ・オフ・コースというグループのデビュー曲です」と言った説明書きがあったと思う。それに興味をひかれて買ったのだったか。

ただ、その楽譜でギターを弾いてはみたものの、肝心の楽曲そのものは、テレビやラジオで耳にする機会がなかった。

このギターピースは、もしかすると木更津の実家のどこかに残っているかもしれない。

 

1972年、高校2年の時に、オフコースが東京音楽祭に出場して「おさらば」を歌ったのは、当時知っていた。もしかするとこの東京音楽祭はテレビでも放映されたかもしれず、観た可能性もあるが、記憶にない。

 

メンバーの変遷を経たオフコースが、小田和正鈴木康博の2人体制で改めてスタートし、デビューアルバム「僕の贈りもの」をリリースしたのは1973年6月。高校3年の時だったが、これはまったく私のアンテナにはひっかかってこなかった。

 

この高校3年の時期、前記チューリップ「心の旅」を知り、井上陽水「夢の中へ」「心もよう」を知り、かぐや姫神田川」を知った中で、「オフコース」の楽曲には、存在を知らなかったわけではないのに縁がなかった。

 

大学に入ってからも同様で、最初のスマッシュヒットとなった「眠れぬ夜」(1975年)も知らないままだったし、アルバムも「この道をゆけば」(1974年)、「ワインの匂い」(1975年)、「SONG IS LOVE」(1976年)とリリースされたが、まったく私の眼中になかった。

(ちなみに大学入学後のこの時期、購入して聴きまくっていたアルバムとしては、前記チューリップの他、井上陽水「氷の世界」「招待状のないショー」、グレープ「せせらぎ」「コミュニケーション」、荒井由実「MISSLIM」「COBALT HOUR」、吉田拓郎「明日に向って走れ」、アリス「アリスⅤ」、風「時は流れて・・・」「Windless blue」、甲斐バンドガラスの動物園」、丸山圭子「黄昏めもりい」、さだまさし「帰去来」などがある。これだけあれこれ聴いていながら、オフコースに手が伸びなかったのは何故か、自分でもわからない)

 

結局、オフコースのレコードを初めて買ったのは、1978年2月のことだった。「JUNKTION」。大学卒業間近の時期である。

 

これを機にオフコースに目覚めて没頭するようになったわけではなく、就職2年目の1979年8月に、縁あって行った田園コロシアムでのライブ体験という転機を待つことになる。

 

このような経緯なので、記憶に曖昧な部分もあるが、存在を知っていたかどうかではなく、その楽曲にふれるようになった、という意味での出会いは、

   赤い鳥    1970年 中学3年

   チューリップ 1973年 高校3年

   オフコース  1978年 大学4年

ということになる。

 

今振り返ると、赤い鳥とチューリップはほぼ同時期という感覚だが、チューリップとオフコースの間には大きい開きがある。

これはおそらく、両者のテレビ露出の違いだろう。

大学時代、ラジオの深夜放送をあまり聴かなかったことも大きいかもしれない。

例外的にグレープがパーソナリティを務めていた時期の「セイ!ヤング」は毎回聴いていたが、この番組でかかるのはほとんどが洋楽だった。

 

同じ年のコンテストが輩出した3アーティスト。現時点での私との接点としては、小田さんのツアーに毎回行っていること、赤い鳥のメンバーだった山本潤子さんが「クリスマスの約束」に出演したり小田さんのツアーに加わったりしていること、同じく赤い鳥のメンバーだった渡辺俊幸さんが、さだ(まさし)さんの盟友として編曲等で活躍していることが挙げられる。

今思っているのは、財津さんがコンサートをされる機会があれば聴きに行きたいということだ。

(チューリップのライブには1980年代の前半に一度行っている。千葉県文化会館だったと思う)

 

※過去の関連記事

    「小田和正という生き方」に寄せた文章ご紹介
      https://naokichivla.hatenablog.com/entry/59586938
    初めて聴いた小田さんの声は
      https://naokichivla.hatenablog.com/entry/2020/08/24/231749